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2020.06.09

西洋哲学と東洋哲学の希求するもの

 西洋哲学はみな、ことばしか考えない。西洋人がそうであるからである。しかし、東洋哲学はことばにそこまでの価値を認めない。なぜならそれ以上のものを見出してきたからである。「言外の言」という言い方があるように、われわれはことば以上の存在やその奥の意味を理解することを求められてきた。それ故に、デューイではないが、ことばは道具でしかなく自己表現の一部にしかすぎないことをよく知っているのである。そのことがわれわれ日本人にはよくも悪くも作用しているといえるだろう。良くは穏やかさや深淵さであり、悪くは自己表現能力の低さである。西洋人たちの、否、ユダヤ人・西洋人たちの言語能力の高さを否定することはできない。この世がことばを中心とする限りにおいて彼らの存在は常に人類の中核であることを意味するだろう。

(『人生は残酷である』序章 自分の人生とは)

2020.06.08

われ思う、ゆえに〈われ〉あり

 日々に葛藤がある。昨日も今日も明日も考える者には葛藤が付いてまわる。その葛藤を酒を飲んで、あるいは自棄食いをして、あるいは人にあたって忘れ、また同じ葛藤を抱いて明日も生きるのか、思惟してステージを一つ上げるのか、それはあなた次第でしかない。われわれは時間という乗り物の中で、〈死〉という終着駅を目指して単に生存している愚かな生物でしかないとしたならば、人生とは何と哀れで悲しく、残酷であろうか。

2020.06.07

精神的「その日暮らし」からの脱却

 会社で評価されたことが人生の喜びとなり、会社で否定されたことが辛さや悲しみとなり、会社での人間関係が人生の人との関係となる。人生観は自己中心か周囲と協調するものであり、成功(幸福)者になることを目指して生きてきたのである。夫婦の戦いは解消されることはなく、子どもとの葛藤は見ぬ振りをし、親族や知人たちとの関係もただ流されるままでしかない。その日暮らしとは昔貧しかった人たちの生活苦を指すことばだが、経済的に恵まれた現代社会においても、人びとは精神のその日暮らしの中でしか生きていないのが実態である。毎日が同じことの繰り返しであり、ただ生活するためだけの人生を歩いているのだ。なぜ自分がこの世に存在するのかなどという哲学的思考などまったく意味を持たない生き様である。それこそが現実の〈生〉の実態であるのだ。だが、人類も、そろそろこの思考と行動のパターンから抜け出す潮時に来ているのかも知れない。

2020.06.06

われわれは「自分の人生」を生きているか

 いつの間にか親の子としてこの世に存在し、学校に通うようになると日々勉強や教師や級友との葛藤に悩まされるようになり、自我の未確立故に不安を抱き続けることになる。そして、いつの間にか自分は他者によって規定される者となりはてていく。本来あるべきあるがままの自分は見失われ、いつも自身が感じる自分は素顔の自分ではなく〈対他存在〉としての他人によって規定された自分しか存在しなくなっているのである。しかし、果たしてそれは自分と呼べる存在なのかが問われてくる。

2020.06.05

自分らしさ

 何もかもを忘れて自分らしく生きてみたいと多くの人が思う。でも、いざ自分らしく生きようとすると、何が自分らしいのかが分からないことに気付くのである。単に趣味に生きたいという人は、それで幸せかも知れない。しかし、心の淵を埋めたいと感じる者にとって、自分の存在そのものについての葛藤が克服されなければ、前へ進めないのである。

アドラーは、他人から承認される必要はない、人は他者の期待を満たすために生きているのではない、と説く。