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2020.06.14

日本人の精神の歴史

 幼少より耳に馴れ親しんだ「しろしい」という言葉は、毎年の梅雨の時期を重ねる度に筆者に深い思いを持たせる様になっていったのである。それは、果てしなく続く日本人の精神の歴史そのものであったからである。そこには抗し難い無常輪廻観と諦めと感謝と物憂げさと微かな希求とがあった。

2020.06.13

人に与えられた「定め」

 洗濯物が干せなくなるのもこの季節の特徴の一つだ。黴もまた然り。農家などで洗濯物が多い家では、何もかもが黴臭くなることへの戦いが始まる時でもある。これは関東でも多少は共通する所ではあるが、その比ではない。パンに黴が生えた経験は誰しもにある。現代ならば自動洗濯乾燥機などがあってすっかり農家も様変わりをしたのだが、昔はそうではなかった。都会の様に、車で何もかもが解決することもなかった。何もかもが人力で前に進むしかなかったのである。

2020.06.12

雨の中の農作業

 筆者の里では、巨大台風よりも梅雨の方が辛かったものだ。五月下旬から七月初旬にかけての一カ月半に亘る梅雨は、精神的にきついものがあった。その間、太陽を見ることが稀であるだけでも憂鬱になってくるのだが、それ以上に辛いことは、毎日降り続ける長雨である。凡そ本州の人たちには理解出来ないであろうこの長雨は、「シト、シト、シト、シト…」間断なく降り続けるのである。決して大雨ではないが、小雨が一カ月半も降り続けるのだ。勿論、降り止む日もあるが決して晴れることはない。初夏というのに肌寒く、心までもが滅入ってきそうになる。

2020.06.11

大自然から学ぶ精神の昂揚と諦観

 だが、筆者はそんな台風が嫌いではなかった。学校が休みになるからばかりではない。その荒れ狂う大自然の猛威に晒されていることが、何故か心地良かったからである。海は荒れ狂い小さな船を呑み込んでいく。その様な時に船に乗れば、巨大な波の中にすっぽりと船影は隠れ、自分の目線の数メートルも上から、その荒れ狂った波が襲ってくるのである。それは当時の筆者にとって生きているという強い実感が持てる「生かされた精神」の満ちる時であった。幼い時より一度としてそれを怖いと感じたことはなかった。

2020.06.10

日本人を決定付けた梅雨の存在

 「しろしかねー」

 筆者が幼い時よりしばしば聞かされた言葉である。「しろしい」の変化した語である。それは、梅雨の時のみに用いられた季節限定の言葉である。筆者が生まれ育った九州は、関東などでは全く思いもしない程の量の雨が降る地域である。ただの普段の雨も関東の人が出遭うと豪雨という驚きになる程に、雨に対する本州の人たちとの感覚の差は埋め難いものがある。経験的には本州の人たちも台風を知っているのだが、毎年当たり前の様にその暴風雨に晒される九州人にとって、それは日常の一コマであり受け入れなければならない「定め」でもあるのだ。その度に川は氾濫し田畑は荒れるのである。