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2020.06.24

〈総体の私〉との出遇い

 前回、10歳の筆者が〈私〉と初めて出遭った体験について記した。〈私〉とは、前回記したように、「他者の〈自分〉と自分の〈自分〉とを等価として理解し、なお且つ、その両者を統合せんとする意思を持つ者」を指している。

 そこからの旅は時間的には決して長くはないが、精神的には限りなく重く長い旅路となった。一つの帰結は16歳のときに〈総体の私〉として訪れることになる。その間の背景としての人生体験なる苦悩は筆舌に語り得ないものがあった。

2020.06.23

〈自分〉と〈他者〉と〈他者の自分〉

 世界には〈自分〉が自分以外にも存在する―

 世界は〈自分〉だけのものではない―

 ではこの自分とは果たして何者なのか―

 〈他者〉も他者となればそれは〈自分〉でしかない―

 それならば〈他者の自分〉はなに故に〈自分の自分〉に優先し得るのか―

 ここにいるこの〈自分〉と世界中に存在する〈それぞれの自分〉は、

 どちらがこの世における主体者たり得るのか―

2020.06.22

本来の素の自分

 イエスが語る幼な子の自由闊達な〈自分〉のことに直接的に言及しているわけではないが、そのような何らの肩書や世間体を気にしていない素の状態の自分を、哲学者のキルケゴールは〈実存(存在)〉と呼んだ。それは人間の自意識や社会的評価から離れた〈本来の素の自分〉を指した。一切の概念に支配されない〈素の自分〉に立ってこそ、人間は人間たり得ると説いたのである。しかし、〈素〉とはよほどの覚悟がなければたどり着けない姿でもある。そう簡単に人は〈素〉たり得ない。キルケゴールは人以上に神の素たる実存こそを強く説いた。それは、信仰心の篤い敬虔なクリスチャンのキルケゴールにとって、原罪意識からくる〈不安〉と対峙する中での自分対神という一対一の関係性において求められた神の実存であった。それは、キリスト教のドグマ(教義)から離れた、人間の作り上げた理性倫理の神ではなく、本質的で普遍的な存在としての神であった。超人思想を説いたニーチェの「神は死んだ」も、実はこのことを指しているのだと私には思えるのだが、ニーチェは無神論的実存主義者に分類されている。

2020.06.21

〈自分〉という絶対的存在

 〈自分〉は私自身の中核であり、なんぴとといえども入り込むことのできない存在であった。その〈自分〉は私にとって絶対的存在だった。もちろんあなたにとってもである。しかしそれまでは、そんな絶対的存在が他者に有されているとは思ってもみなかったのである。絶対的存在は〈自分〉以外に有り得なかったのだ。

2020.06.20

〈自分〉は自分だけではない!

 それは、私が10歳のときのことであった。

いつものように狭い勉強部屋に入り椅子に座って窓越しに外を見た瞬間の出来事だった。窓の外にはまばゆい陽光とともに、いつもと変わらない田園風景と家並、そしてその先に博多湾が見えた。

 その瞬間、私の脳裏に曾てない衝撃が走った。

 〈自分〉は自分だけではない!

 突如として襲ってきたその思惟はその日を境に〈私〉を決定づけることになった。