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2020.06.29
〈存在論〉ではなく〈自分論〉を
なぜ〈自分〉なのか―。この問題は永遠に解決しないように思われる。この話をし始めると、自分と他人の差について違いについて論じているのだと勘違いする人が大半であるが、そうではない。それは〈存在論〉なのであって〈自分論〉ではない。哲学者の大半が、この点に言及してはいないのである。意識の有無について論ずる者は多くいても「自分がなぜ自分なのか」という命題について論ずる者がない。もちろん〈他者問題〉としてそれらはある程度考察されてはいるのだが、決定的な思考へとは到っていない。それに触れる者はみな、ユングの集合無意識論を借用してもっともらしく語っているだけで、その実、彼らには何も分かっていない。
2020.06.28
どこまでが〈自分〉なのか
さて、誰もが何の違和感もなく〈自分〉を受け止めているのであるが、果たして〈自分〉とは何であろうか。というよりも、どこまでが自分の意識かということを少し考えてみたい。
10歳のときの〈私〉との出遇いは、余りにも衝撃的であった。私は、それまでのただ自己に執着しただけの自分から他者を認識した自分〈私〉へと階段を一段登ることになったからである。何より衝撃的だったのは、〈自分〉という存在の不可解さであった。その主人たる自分が存在する。だがそれは、他者においても同様で、それぞれの他者がそれぞれに〈自分〉を生きているのである。その他者の〈自分〉と自分の〈自分〉はあくまで相対的関係でしかない。
2020.06.27
〈死〉を分析する
前回、自分のこだわりを捨てることで、〈死〉に伴う苦悩を克服したことを記した。
しかし、座禅の境地に達する必要もなく、思考をもって分析することで、ある程度は理性によって死は冷静に受け止められるようにもなる。すなわち〈死〉とは何かと考えてみることである。
死とは、自分の思考の停止を意味する。単に一時的思考の停止なら気絶や熟睡の最中もそうだが、〈死〉は一時的ではなく永遠であるのだ。サルトル的に言うならば、自己が支配する〈対自存在〉から他者に支配され自己が失われた〈即自存在〉への移行である。永遠なる死はすなわち無であり、死んだ当人には意識がないのだから永遠すらもないということである。死の直後、遺体が存在する間は、死者を知る者たちにとっては、それは即自存在としての物となり、その後に焼かれるなり埋葬されるなりして、目の前から遺体が消えたときに、死者は遺族や友人たちの心の中に生き続けることになる。
2020.06.26
生きるとは何か
死ぬための人生は悲しすぎる―
生きてることに何の意味があるのか―
その後、少年期から青年期にかけて私の心を支配し続けるこの命題は、人生に対する目的意識を根底から見直させることになる。〈死〉はすべてを失わせるのである。愛のすべてを奪い去っていくのである。この事実を直視することは、当時の私には耐え難い苦しみであった。いかにそのことを忘れるか、意識しないかが毎日の課題でもあった。しかしそれは、毎日のように私に襲ってきた。生は常に死との表裏でしかなく、生は死そのものであった。この悲しみや不安感というものを一掃することになるのは、15歳から16歳にかけての元服の儀式としての切腹の疑似体験の特訓を1年間毎日のようにしたことによるところが大きい。さらに、瞑想を始めたことが決定的であった。
2020.06.25
〈死〉という宿命
昨日語った〈死〉なる命題についての続きである。
私の場合は、自他問題よりもこちらの方が重大で、決定的で、すべての私の精神を傷つけるものであった。その意味において私はニーチェに負けないだけのニヒリストでもあった。その眼前に立ちはだかるのは〈死〉問題であった。私の場合〈死〉の意識は祖父によって築かれた。祖父と一緒に住んでいた生後4年半のうちの、たぶん2歳以降における、朝の6時に起床して朝焼けとともに博多湾に漁船(ポンポン船)が往き交うのを見ながら庭先で歯を磨くというお決まりの日常の中で、祖父が毎日のように口にした「爺ちゃんが死んだら…」というフレーズが、私の生死観を決定づけたように思う。3歳時は常に母の死を恐れていたものだ。
こんなことを言うと、たまに2歳3歳の記憶があるわけがないと言う人がいるのだが、むしろ記憶していない人こそ問題があるのではないかと私は思ってしまう。因みに、私には母乳を飲んでいたときの記憶も残されている。厳密には6歳のときにそのときの映像を想起し、その記憶がおとなにまで引き継がれたものである。