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2020.07.04

時間は存在しないのか

 時間を考えるとき、必ず言われるのが、心理的時間つまり何かに集中していると過ぎるのが早く、イヤな時は遅く過ぎる、子どものときは1年が長く、おとなになるとアッという間に1年が過ぎるというものである。ここではその心理については語らない。純粋に本質的または物理的時間について述べたい。時間は古くはギリシャやインドにおいて記述されており、プラトンの対話『国家』でも輪廻転生を前提とした議論がなされている。古代ギリシャにおいては黄金時代→白銀時代→青銅時代→英雄時代→鉄時代の5時代を1宇宙期としてそれが永遠に繰り返される円環的時間論が語られている。そこでは永遠という単位で人間が同じことを繰り返す愚が述べられるのである。これを循環史観と呼ぶ。ほとんど同様の内容が古代インドでもウパニシャッドやブラーフマナの文献に語られている。

2020.07.03

人は誰しもが宇宙の中心である

 前回、「物質は最小単位になったとき、量子の状態では物質なるものはもはや存在しない」という物理学者のプランクの説を紹介した。それに対して、西洋哲学の観点では、「外界は、私の意識によって生じているもので、自分がいなくなれば世界も消え失せてしまう」「外世界も内世界も、唯一の自分だけの錯覚の世界だ」と主張することを述べた。

 しかしその論理展開にはどうしても無理があって、自分が存在していようがいまいが外界は存在するのである。そのことに恐怖を抱き嫌悪したのがレヴィナスである。「明日、突然私が死んでも何事もなく存在し続けるこの世界が私は恐ろしい」と述べた。彼は空間的時間的存在のすべてを他者と呼んで、その他者に恐怖し克服しようとするのだが、自分自身の存在を危うくするものとして「他者を殺したい」と叫んだ。それは彼がアウシュビッツで死を覚悟したその時の叫びでもあった。自分がいようがいまいが存在する絶対なる「他者」、この自分の一切を否定してくるこの存在に圧倒されたのである。

2020.07.02

世界は存在しない

 物理学者のプランクが言うように、物質は最小単位になったとき、量子の状態では物質なるものはもはや存在しないのである。ただ、振動あるいは波のような性質の「働きかけ」が存在し、その場を支配しているというのである。つまりそれは、われわれの身体も目に映っている景色も錯覚の産物でしかないというのである。物質は存在しないのだ。

 だが、マクロに生きるわれわれには紛れもなく物質が存在し、いまも服を着こんだ物体がペンを持ってこの文章を書いているのだから、物質は存在しないと言われるとマクロ的にはピンとこない。だが、これが真実である。これは早100年前に発見されていることで、新しい知見ではない。実はこの事実を仏教は2500年も前からまったくその通りに説いてきたのだから、驚嘆する。現代のような科学も道具もないときに、この物質の本質を穿った教えには、ただただ敬服する。

マックス・プランク(1858~1947)は、1918年、量子論の研究でノーベル物理学賞を受賞した。

2020.07.01

錯覚としての実在

 われわれは何の違和感もなく自分を演じ生きている。そして内なる自分から外なる自分へと意識が動いたとき、眼を通して外なる世界を認識する。正しくは眼耳鼻舌身意なる六根の働きによって外界を認識するのである。視覚として空間を認識し色や遠近形状を知るのである。耳は音、ことばを聞き分ける。鼻は周囲の匂いを嗅ぎ分け、呼吸という生命維持の重要な役割も果たしている。舌は味覚という生命維持のための食と密接な関係にあり、かつ言語を発する。さらに全身の頭・四肢・皮膚・内臓器を通して外を認識し関わる。そして意識がそれらを統括して自分とその周辺の諸々の現象を把握するのである。この六識をもってわれわれは自分の存在を認識するのだ。

2020.06.30

空間の考察

 われわれは何の違和感もなく自分を演じ生きている。そして内なる自分から外なる自分へと意識が動いたとき、眼を通して外なる世界を認識する。正しくは眼耳鼻舌身意なる六根の働きによって外界を認識するのである。視覚として空間を認識し色や遠近形状を知るのである。耳は音、ことばを聞き分ける。鼻は周囲の匂いを嗅ぎ分け、呼吸という生命維持の重要な役割も果たしている。舌は味覚という生命維持のための食と密接な関係にあり、かつ言語を発する。さらに全身の頭・四肢・皮膚・内臓器を通して外を認識し関わる。そして意識がそれらを統括して自分とその周辺の諸々の現象を把握するのである。この六識をもってわれわれは自分の存在を認識するのだ。

 しかし、失明したり失聴したりすれば、外界の把握は著しく困難となる。ところが近年の研究では、失明した人が「エコーロケーション(反響定位)」という手法で、コウモリとまったく同じ原理で物体を把握し、ほとんど眼あきと同じ状態になれることが明らかとなった。聴覚を失った人も、ちょっとした風の流れや匂いなどと連携して心で感じ取る(聴き取るではない)ことができる人たちを見出したのである。