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2020.07.09

陰性としての幽玄

 そこで、陰陽としての幽玄の具体的な姿を茲に紹介する。それは、誰しもが知るありふれた情景でもある。では、同じ視覚の対象が何故に人により異なって見えるのかと言えば、それは夫々の感性の違いという以外にない。特に陰性については、合理主義的には迷信を信ずる者か否かの差ということにもなる。芸術論的には感性の豊かさと貧弱さの差ということになり、脳生理学や心理学的には錯覚や不安の産物ということになる。民族学的には蓄積された民族の記憶ということになる。

2020.07.08

幽玄に見る陰と陽の相補関係

 筆者にとっての幽玄は、生まれながらに到る所に在った。それは住んでいる茅葺きの家そのものが正にそうだったからである。街灯などという気の利いたものがない時代、村自体が幽玄や侘び世界の一部でしかなかった。いまでも各地のど田舎へ行けばそんなところは到る所にあるものだ。夜になれば村全体が真っ暗になった。星は都会の何倍も輝いて見えた。家の土間にもそのうえの屋根裏部屋にも藁が積み上げられていた。その屋根裏はいつも薄暗く、梯子で一人上っていくことには抵抗があった。祖父母の部屋も薄暗い中に古めかしい箪笥が並んでいて、一度も可愛がってくれなかった怖い祖母が居て足を一歩も入れることが出来なかった。一方、大好きだった祖父とは火鉢でおにぎりを焼き、如何にも平和裡な空間の中にいた瞬間も幽玄の一時であり、また侘びの世界でもあった。

2020.07.07

黄泉の世界を垣間見せる「幽玄」

 「幽玄」というと日本の解説書では第一に能が出てきて世阿弥の思想などが紹介されるのであるが、果たして能の幽玄は真に幽玄なのだろうか。あの独特の節回しは文句なく合格と言えるだろう。能楽も正にピッタリである。しかしそれでも『風姿花伝』や『花鏡』に幽玄という文字はあっても、真なる幽玄が有るとは筆者には思えない。不充分だと敢えて申し述べたい。否、そもそも世阿弥は幽玄など語っていないのかも知れない。能の幽玄は拙著が説く大地の幽玄や中国に源を置く幽玄とは根本的に違うのかも知れない。単なる芸能の産物なのかも知れない。もしそうだとしたならば、拙著は古来より伝わり、また大地に根付いた所の幽玄について述べることになる。

2020.07.06

伝統的思考にこそものの本質がある

 私には時間は有って無いものと映る。有るとは過去から未来へと向かう矢の存在であり、無いとは過去を見出すことはなく未来は未だ生ぜざるところのその間に位置する〈いま〉は存在し得ないというものである。しかし、われわれの実感として確かに〈いま〉は有ると感じられる。しかしその〈いま〉と感じるのは、脳の処理時間の関係で、実は常に現実よりもほんの少し過去のことであり、その意味ではわれわれはわずかながらも過去に生きている、ということになってしまう。しかし、それは脳・意識の能力の問題で客観的物体としての私は〈いま〉存在している。物理学的にはそれこそが〈いま〉であるのだ。

 ここでわれわれが思惟しなくてはならないのは、絶対空間や絶対時間というものの不確かさである。そのことは取りも直さず、自分自身の存在の不確かさを意味するということである。そしてわれわれが日常に生きている〈現実〉という世界も実は不確かなのだということだ。その不確かさは、人智を越えた不確かさと、この眼前の世界を肯定した上での不確かさがある。前者については人には如何ともしがたいことだが、後者ならば、サルトルよろしくわれわれは、目の前の世界に自己の自由な意志を〈投企〉し、自己実現への道を歩むことができるということでもある。既存の価値観に振り回されず、他者の意思の奴隷にならず、己の確固たる意思を世間に表明し、自らの自由のもとに力強く生きることが示されるのである。

2020.07.05

過去も現在も未来も同時に存在する

 さて、時間はどうして生まれたのだろうか。

 われわれがそれを考えることはほとんどあり得ない。73億強の人類の中で時間を哲学する者など数えるほどしかいないだろう。なぜならそれは、生まれた時から当たり前のものだからである。われわれが生きるということは時間が経過することを意味したからだ。しかし、この目に見えない時間もアインシュタインの登場で一気に注目を浴びることになる。一般に時間とは時計とともに文明人には認識され、未開人には太陽の日の出と移動、日没、そして四季や乾季雨季、動植物の出現などによって日常的には認識されるものである。そこに心理的時間が加わってくる。