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2020.07.14
人々に平安を与えてきた幽玄の世界
それ(幽玄)を受け止める側のこちらにもいくつかの条件がある。何より素直な人間性を有していることだ。美的センスも要求される。寒さや暑さに心を引かれている情況下では、いくらこの様な光景が生じても、幽玄観は生じ難い。花火大会なら感激するだろうが、繊細な感性が要求される幻想の世界、陽性の幽玄には、体温がある程度健全な形で保たれている必要がある。但し、陰性については必ずしもその限りではない。猛暑や寒冷の中で体が悲鳴を上げている時にも、それは出現することが可能である。それでもその瞬間には、寒暑が一瞬消え去る感覚を覚えるだろう。
2020.07.13
透き通る陽性の幽玄
ここまでの劇的な感動ではないが、静かに深くそして長く筆者の心を支配した光景というのがもう一つある。それは、少年から青年期における日常の中の幽玄の表出であった。日常の通学路を月夜に通るとき、ある一角に来ると目の前の湾に、その月が映りその光が水面に乱反射する様がこの世のものとは思えない美しさで、穏やかな漣に揺れるその光は幻想そのもので、その澄んだ空気感はわが心を捉えて離さなかった。それはとても平和である。過去劫来の時と未来永劫の時とが共に一つとなって顕われたが如きである。もう余りの美しさに心が溶けて無くなってしまいそうで、その絵が如き情景はその後も現在に至るまで、筆者の幽玄観の輪郭を成すものである。
日常的な光景であったにも拘わらず、それを目にする為には、月の出現時間と帰宅が遅れることが必須条件だった為に、思いのほか鑑賞の日々は少ないのではある。もう一つの問題は、それを見る為に佇む場所がなかった為に、そこに立って見ていることが「変な人」になってしまうという日本人の狭量性故に、それ程感動していながらも、見続ける時間はせいぜい数分であったという悲劇があった。今やその様な景色を見る機会も場所も全くない現在、もっと沢山、何より写真に収めておくべきだったと後悔しても遅いのではある。
2020.07.12
陰中に出現する陽性の幽玄
筆者は、既述している様に、生家に於いて毎日の生活の中で陰陽それぞれの幽玄を目撃し、自分の心の中に刻印されてきた事である。だが、その現場に立ち会えば誰しもに幽玄が表出するかといったら微妙である。陽の強い幽玄には大半の人が心惹かれる共通項が有るが、陽性を帯びた陰性の幽玄には、必ずしも万民が美を見出すかどうかは難しい。その意味に於いて、わが生家の厨房の窓からの陽射しは、見解の別れる所となるだろう。鈍感な人には只の洩れた陽射しでしかないからだ。
2020.07.11
生きる「儚(はかなさ)さ」を抱く陰性の幽玄
一極は陰陽二極に分岐した形で物理も心理も支配し作用していることを知る必要がある。その力によって陰陽の幽玄も出現する。それは、自然科学的には否定され、芸術や文化の世界に於いてのみ評価されるものとして語り継がれてきた。
もっとも容易な例を挙げると次の様な差異がそこにはある。
Ⓐ人里離れた森の中に祠が在る。その祠は朽ち果て黴や苔が生え、蜘蛛の巣が張り、足元は泥濘んでいる。空気は淀み、見るに汚らしい。この祠には幽玄は表出しない。
Ⓑ人里離れた森の中に祠が在る。その祠は苔が付き朽ち果てながらもその威厳を留め、その足元は乾燥し昼間には木洩れ陽に輝いている。この祠には幽玄が表出している。但し、その周囲の森が無秩序的な気を放っている場合には注意を払う必要がある。
2020.07.10
民族が継承してきた深い闇の表出
陰湿な場が神秘性を有する為には、そこに一瞬の乾燥した空間が必要となる。それは、そこに立ち入る人間の心の内に生ずるものでもある。言うならば、それは精神のゆらぎでありそこから生じた美であり、自己のアイデンティティに触れる某かの記憶の産物でもある。つまり、陰性と言っても、そこに幽玄観が見出される為には、只怖いや薄気味悪いでは不可能なのである。仮令陰性であっても幽玄である限り、それは恐怖の対象であることはないのだ。茲の所は明確に分析しておく必要がある。そうでなければ幽玄は美とはなり得ない。
誰しもが感動する陽性の神秘性とは異なるとはいえ、幽玄は陰性であってもそこに神秘を表象しているのである。だからそれは何らかの心理的惹き付けの対象であって、美を表現するものであり、決して恐怖感を伴わせるものではない。だから、もし、あなたが「怖い」や「薄気味悪い」と感じたならば、その場は幽玄とは言わないのである。