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2020.08.17

侘び感と坐禅

 筆者が坐禅に没頭していたのは、侘び感が最も有る十代の時期であった。上京して、ある種の孤独性、超然とした他との孤立感があった時は一層強まった。そういう時にこそ、坐がよく組めるのである。何故かと言うと、これは体質にもよるが、精神が非常に安定するからである。尤もこれは人によるだろう。気の弱い人はそうはならないかもしれない。元々気の強いタイプの人間というのは、辛い時、寂しい時ほど寧ろよく気が収まる。陽として表に出る気の強い人たちというのは、その様に陰の気が襲うことによって、バランスがうまく取れてきて、非常に落ち着いて坐禅が捗るのである。

 であるから、そういう孤絶感の中で、侘び感というものを味わうということは、筆者は十代から二十代にかけて非常に強くあった。因みに、当時、曹洞宗永平寺の修行僧の一日をルポルタージュしたテレビ番組を見た時の驚きはいまだに忘れられない。彼らの食事風景が映されている時に、ナレーターの声が如何にも厳しい修行をしているという口調で「……粗食に耐えて…」といった内容のことを語ったのである。それを見た時、貧乏学生だった筆者は憤ったものだった。

2020.08.16

侘しい体験の昇華

 「侘びしい」の原点となった、貧しい、着る物もない、食うものすらない、というその侘しさが高い知性によってより深められ、達観によって昇華されていく。それこそが「侘び」の世界なのである。

 表面的なただの〝体験〟が、時を経ることによって、自分の感覚的な分析と、理知的な分析の両方が相俟って、そこにより深い感性を呼び起こすのである。その時によく味得することで体験は〝経験〟という言葉に変わり、「侘び観」がその内に生じるのである。

 この侘び観を味わい得ることが出来ない人に、坐禅は出来ない。形だけの坐禅となる。何故この侘び観が坐禅を深めるのかと言えば、侘び観には諦めがあるからである。諦めがない者に禅は出来ないし、諦めがない者から、侘びの思想は見出せない。諦めとは諦観までに昇華されていなくてはならない。そういう意味では「然び」に於いても然りである。

2020.08.15

黒人霊歌やジャズと「侘び」

 しかし、これに類似する感情は他の人種でも持ち合わせているのだ。同様に封建時代までの世界は、否、黒人たちの悲劇を見ているとついこの間まで、下層の人々は支配者によって苦難、否、恐怖を強いられ辛酸を嘗めさせられてきた。その彼らと日本人はどこが違ったのかだ。それは、日本人は抵抗して勝ち取るタイプの人種ではなく現実を受け入れるタイプの運命論者であった精神背景のせいだと思われることである。

 一部問題があったとは言え、それを可能ならしめたのは謙虚を基本とされる天皇の存在であった。天皇の存在そのものが社会に歯止めをかけ、各地の権力を抑制していた為と思われる。世界の全ての国で横行した強い奴隷制を生じさせず、非人道的行為が他人種と比べて極めて弱かったことが、衆人に無抵抗的服従を受け入れさせていったのだと思われる。そこに仏教の無常観や末法思想などの影響があったと思われる。その諦めの人生観から、日本人特有の美が誕生したのだと考えられる。

2020.08.14

寡黙のなかの侘び

 それは寡黙な百姓たちの叡智派に於いても同様だった。彼らには雅人の様な嫉妬の類に悩まされることはなかったが、只管貧乏という命との闘いと諦めとが日々に襲っていた。その中から叡智派は民衆の叫びとしての仕事や祭りや怒りや死そのものの中に「侘び」を見出し更に「幽玄」を体験していったのである。

 百姓たちは、長じてから、自分がいま、ちゃんと飯が食えて、少しでも楽に暮らせている中で、ふともっと辛かった時のことを思い出すと、何とも悲しく切なく辛いのだが、それを受け入れることによって自己を客体化させ、そこに哲学的美を見出すようになっていったのである。

2020.08.13

侘びの根底にある「和を以て貴しとなす」の精神

 家柄は貴族階級であったとしても、そこにも上下があり、プライドの傷付け合いがあり、惨めな現実とも対峙させられる。そういう中で自ずと醸成された美意識であったのだろう。しかしそれならば、世界中どこの人種にだって当てはまることである。何故に日本人だけにその美が見出されたのかと考える必要がある。それは、聖徳太子に代表される「和を以て貴しとなす」という精神だったのではないかと考える。他の国々では基本的に掠奪の精神史であり、日本ほど和を意識する国はなかった。わが国にも嫉妬や怨みなどが渦巻いていたとは言え、基本ベースが剣を持って殺し合う関係になかったことが大きいのではないかと思う。そうなると、一部の凶行に走る者を除き、権謀術数はあっても剣にて覇に生きない雅人たちには、出世出来ない者たちの悲哀が、一つの短歌として愁美さを見出すようになったのではないかと推察するのである。