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2020.08.22

海外での誤解

 では、凡夫でなくなった人たちが、侘びという言葉を使って後世に侘び観を伝えたのかというと、残念ながらそこまでの人は芭蕉等の数人を措いていないのではないだろうか。

 彼ら先人が、現在に伝えているところの侘び観というのは、文献の中にしか存在せず、現代の茶や歌等の中には見出し難いと筆者は感じている。俳諧も果たしてその様なものがあるのか些か疑問である。特に茶道に於いては、江戸期に家元制が敷かれてからはブルジョアの典型となり真実の侘びは全く理解出来ない状態にあると言わざるを得ないのではないだろうか。

2020.08.21

自然哲学へ還れ

 それにしても、人は何のために生きているのかと私はいつも思う。このような現実を見るにつけ、哀しく思う。その過酷な状況から脱け出せない人びとにとって人生とはなんと残酷なのであろうか。果たして哲学はこの現実を変え得るだけの力を持ち併せているのかが、常にわれわれに問われていることでもある。生きることの本質は、日常の洗脳から解放されない限り、それを理解することは難しい。サルトルは神学規範(西洋の道徳律)からの自由を説いたが、実はそれ以上に日常的な洗脳からの自由こそがわれわれに問われていることなのである。

2020.08.20

東洋哲学は実践哲学

 改めてこうやって西洋哲学と比べると、仏教哲学との差が明然として面白い。東洋の哲学は常に宗教性を帯び修身の意味合いを持つ。つまり、東洋哲学とは実践哲学であり、現在の西洋哲学は言語だけの観念哲学であるということができる。その点、ソクラテスのような命を捨ててまでの一貫した覚悟を有していない。人格性はまったく問われない。その意味では19世紀までの哲学には、まだ人格の向上についての実践が語られていたように思う。もっとも、20世紀とはいえサルトルの実践主義はこれらとはまったく異質のものである。

2020.08.19

一貫してこその論理

 論理は常に一貫しなくてはならない。自分に不利であっても理が優先されなくてはならない。

 紀元前399年、古代ギリシャのアテナイにおいて、最も偉大な哲学者ソクラテスは、政治家たちの策謀に遭い捕えられ「青年を堕落させた罪」で死刑宣告を受け従容(しょうよう)として毒杯を口にした。牢獄から逃げだせるようになっていたにもかかわらず、「脱獄の不正」を嫌い、何より自分が主張してきた正義と真理の正しさを主張するために、若きプラトンたちの前で命を絶ったのである。その瞬間、「人間は万物の尺度である」と言ったプロタゴラスの相対主義を、ソクラテスの絶対主義・絶対真理が打ち倒し、燦然と輝きを放ったのである。まさにこの時こそが、ただの屁理屈の学問だった哲学が絶対的学問へと進化した歴史的瞬間であった。

 このソクラテスの一貫した姿勢こそが、いま憲法学者や教師たちに突きつけられているのだ。論理的に矛盾があってはならない。イデオロギーに支配されてはならない。ただ、真理だけを追究する者でなくてはならない。その真理追究者は、悪魔であってはならない。優しい情を持った者でなくてはならない。その上で一貫した理を説かなくてはならないのだ。ソフィストたちのように相手の揚げ足を取ることだけを考えているような人物になるべきではない。いまの政治家はそればかりだ。

2020.08.18

自我という錯覚

 人が自分の自我を自覚しその許容される思考と行動とをともにするときに、どこまでが真に〈自分〉であり、どこからが他者からの意思であるのかという区別はされることがなく、人はただ自分と誤認して常に判断するのである。だがそこには自分の自我を優先すべきかという問題が常に存在する。にもかかわらず、人はその事実に立ち戻ることをすることなく、否、大半の人間はそのことに気付くことなく、いまここに〈認識している意識〉を〈自分〉あるいは〈自我〉と錯覚して、この瞬間に選択と決断を繰り返すのである。