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2020.09.10
『タオと宇宙原理』〈17〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆思考優位型の攻撃性
それともう一つ重要な観点がある。この種の思考優位型の人に共通するものとして他者の心が理解できないというのがある。それ故、他者の言動や感情表現を単純な一つ一つの文字に置き換え、数値化することで他者を理解できると考えるのであるが、明らかにそこには実態との乖離(かいり)が生じることは否めない。彼らには他者を直截(ちょくさい)に感受し理解する能力が著しく劣っている傾向にある。残念ながらそのことを彼ら自身は理解していない。それをカバーするために、彼らは言語化と数値化を試みる。ところが、結果的にそれは研究成果として評価されることとなり遂に学問として成立することになる。何とも皮肉だが、かくして彼らは権威を身に付けることが出来るのであるが、だが、決して原点の感受性の劣性が改善したことを意味するのではないし、数値によって保証されたのでもない。
彼らのような思考優位型の特徴として他者との協調性の欠如が挙げられる。また、情報を自分一人のものとして他者へ譲り渡すことを頑なに拒む無意識が内在する。それは、自己保全の為の自己同一を強化する手段として用いられる。だが、本人がそのことに気付いてそうしているわけではない。彼らはそうするしか自己を保持することが出来ないのである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 思考優位型の攻撃性)
2020.09.09
『タオと宇宙原理』〈16〉第一章 思考優位型の傾向と過(あやま)ち
また、「神を信じる者は心が弱くその拠り所として信仰するのだ」ということがまことしやかに語られるのであるが、これらの思考も余りに短絡である。そもそも宗教哲学的にはそのような弱い心を信仰とは呼ばないからである。信仰とは強い心を有さない者には持ち得ない心だ。
残虐なローマ皇帝下コロッセオにおいて、生きたままライオンの餌食にされたクリスチャンたちの勇気をこの思考優位型の唯物論者たちは持ち得ない。彼らは生き死にの〈言語体験=明確な自覚的思惟(しゆい)〉を経験してこなかったがために、時に、その「恐れ」から逃れるための思考の罠(わな)に陥り、この偏狭な価値観へと短絡してしまった者のように筆者の眼には映る。それは将にハイデガーが名付けたところの愚者ダスマン(世人)でしかない。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 思考優位型の傾向と過(あやま)ち)
2020.09.08
『タオと宇宙原理』〈15〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆思考優位型の傾向と過(あやま)ち
筆者が説く宗教観は仏陀が説くところのものであり、それは仏教中興の祖である龍樹が説く空観(くうがん) であり、同時に慈悲の論理である。それは、世間で知られているところの宗教観とはまったく異質の物理学と共通する哲理(教義)である。
2020.09.07
『タオと宇宙原理』〈14〉第一章 科学者の傲慢
改めてドーキンスらの本を読み直せば、彼らが語ることは現在のイスラム、キリスト、ユダヤ教徒に対する批判であるということであって、もしかすると仏教は入っていないのかも知れない。それなら筆者が彼らを批判する筋合いはなくなるのだが、残念ながらそうではなさそうである。彼らは正真正銘の機械論的唯物論者であるということである。
何より、懸念することは、彼らの存在感が大きく、権威者の意見を分析することなく盲信する日本人の特性に対してである。これ以降、日本人がますます唯物主義となり心を見失い、「欲」だけを支柱として生きる価値観に陥っていくことを強く懸念しているのである。
2020.09.06
『タオと宇宙原理』〈13〉第一章 科学者の傲慢
ただし、彼らの批判的概念としての「神秘主義者」という言葉はいただけない。東洋哲学の最高峰に位置する老子の思想は、将に神秘主義の名をほしいままにしているからである。仏陀と並ぶこの最高の叡智を侮辱するかの如き表現は、東洋人の我々は見過ごすわけにはいかない。
また、人智を越えた神秘性というのは、我々の感性の中に明らかに出現するからである。鈍感な思考優位型の人たちには感じ得ないことだろうが、芸術家を中心に、その種の人たちの精神(魂)の奥に垣間見え心惹きつけられる神秘性を、多くの人は感じ取るからだ。彼らが批判する神秘主義者とは、要するにいかがわしい嘘の神秘を売り物にした権威主義者であり、明らかな詐欺師でしかないはずだ。だが、しかし、そうではない知性を有する純粋な精神までをも、彼らは同列に批判の対象としてしまっている。つまり彼らの問題は、この種の幼稚な宗教的なるものを以て全宗教の否定に陥っている点である。彼らとは真逆に立脚する物理学者のアインシュタインやマックス・プランクらが言うように、心を癒やす信仰の世界があることは美しいということを否定できないのではないかということである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 科学者の傲慢)