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2020.09.05
『タオと宇宙原理』〈12〉第一章 ◆科学者の傲慢
そんな中、最近夙(つと)に気になり始めたのが科学者たちの傲慢と言っては言い過ぎかも知れないが、彼らの一般人への見下しである。彼らの知識は素晴らしいと思う。私のような無学にとって知性は憧れのものだ。数学者の数式は美に彩られているらしいが残念ながらそれを理解するだけの知識が我々庶民には欠落している。決して感性が欠落しているわけではない。単に知識が欠落しているのだ。ただ、彼らの言いたいことは理解できる。この数学者たちに特段嫌味を感じることはないのだが、影響力があるという意味で最近の一部の生物学者や物理学者や脳生理学者たちの辛辣なことばには、少々うんざりするものがある。
2020.09.04
『タオと宇宙原理』〈11〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆科学者の傲慢
筆者にとって理想的な人間像は昔ながらの百姓である。百姓は暦を観ながら天候と相談し太陽と共に寝起きし、わが子のように作物を育て、厳しい環境の中で自分に打ち克ちながら、大した愚痴も言わず人生を全うする。そんな百姓なんかいまどき居るわけないだろ!と言われそうだが、そう信じている。そのような人生にいまも憧れてはいるが、いつの間にか都会生活に慣れ、使いものにならない心身になった。たぶん大半の人の人生は気付いた時には勉強だけの味気ない受験生を演じていて、その後は都会に住んで生活に追われる人生へと転じていく。これが都市に住む大半の日本人なのではないだろうか。田舎で心豊かに生きている人や自分のやりたい事を手に入れた人は恵まれている。いまどきはスポーツなどに目覚める人も多く、大いに結構な話だ。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 科学者の傲慢)
2020.09.03
『タオと宇宙原理』〈10〉第一章 ◆「信仰」の否定と「分別」という誤り
しかし、ここで問題になるのが、彼らは単に信仰の対象を形而上から形而下に変更しただけにすぎなかったということであった。彼らがやるべきことは、あらゆる信仰を捨てることだったにも拘わらず、彼らは新たな神の科学原理信仰へと移っただけであった。これは本質的にまったく何も変わっていないことなのである。彼らは前の分別から新たな分別という、愚かから別の愚かへ転じたにすぎなかったのである。
2020.09.02
『タオと宇宙原理』〈9〉第一章 ◆「信仰」の否定と「分別」という誤り
しかし、物理学は新たな局面を提示し、いままで人類が信仰してきた「神」の概念の修正を迫ってきたのである。特にキリスト教に於いては人間イエスを神と概念化したことから、他の宗教とにおける絶対性にひずみが生じていた。欧米の科学者たちは、この点に於いて特に反キリスト教の立場に立ったということでもあった。その強力な呪縛からの解放が、哲学者のニーチェやハイデガーあるいはサルトルや、ウィトゲンシュタインらによって唱えられ、宗教からの自由こそが人間存在(実存)の肯定となり、物理学者の自己同一へと向かったのだと思われるのである
2020.09.01
『タオと宇宙原理』〈8〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆「信仰」の否定と「分別」という誤り
この神観が、物理学の発展によりそのリアリティを失い、知的を自認する者たちを中心に自然科学者、生理学者、生物学者たちが〈依存〉として受け止めた神観からの脱出を試み、彼らは神信仰を捨て唯物信仰へと転換したのである。このような物事に執著(しゅうぢゃく)して判断していく思考を仏教では「分別(ふんべつ)」と呼んで、煩悩の最たるものと教えている。凡夫の愚行として分類するのであるが、そのようなことを知る由もない知性を標榜する者たちは、新たな唯物信仰へと移り、神への信仰を捨てたのであった。その結果、それまで宗教によって保たれていた道徳や倫理観が崩壊し、支配や権力やカネが優位の社会を形成し始め、敗者は劣者と見られるようになった。その最たる者が歴史上の暴君であり、ヒトラーであり、ダーウィニズムであり、現在のアメリカ文明であるだろう。それ以上なのがいまや中国文明である。愚かという意味では現在の日本も同類である。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 「信仰」の否定と「分別」という誤り)