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2020.09.20
『タオと宇宙原理』〈27〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆電磁気力の驚異
「何故あなたは床に立っていられるのか」と問われたら、読者はどうお答え頂けるだろうか。脚腰がしっかりしてるから立っていられるに決まってるだろ!という返事が飛んできそうだが、実に、これには驚くべき事実がある。
現代人ならあらゆる物質は原子で出来ていることを知っている。目に見える一切のものも見えない一切のものも、そしてこの筆者もあなたも、原子で出来ている。つまりはランチでてんぷらを食べたのはあなたではなく原子だったということになる。という話の流れになれば、その場所に立っているのは原子ということになる! そう、そこに立っているのは原子の集積であるあなたにすぎない。そのあなたが原子の作用としてそこに立っていられるのである。もし原子の、ある作用が働いていなかったなら、あなたはその地面や床の下を通り抜けてしまう、と言ったら信じてもらえるだろうか。別にオカルト話をしているわけではない。物理学を知る人なら答えは簡単だが知らないと絶対に分からない。
2020.09.19
『タオと宇宙原理』〈26〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆老子の逆説
物理学も宗教も所詮は無知であることを自覚する必要がある。筆者も知っていること以外は何も知らない。何も知らない事がそのほぼ一〇〇%だ。
東洋最高の哲人の老子は言う。
衆人は煕煕(き)として楽しく笑い、ごちそうを食べ春の高台で人生を謳歌している。しかし我(われ)独(ひと)り泊兮(はっけい)として身じろぎもせず笑いもせず孩(がい)なる赤子のようだ。ふわふわとしてどこにも帰る所もない。衆人は皆有り余るほど持っているのに、我は独り遺(うしな)えるが如くなにも持っていない。我は愚人の心なり。まさに我は沌沌兮(とんとんけい)としてにぶいものだ。俗人は輝いているのに我独り昏(くら)い。俗人は察察として活発なのに我独り悶悶(もんもん)としている。衆人は皆取り得が有るのに我独り頑(かたく)なで鄙(いなか)者のようだ。なんの取り得もない。だが我は独り他の人と異なるところがある。それは衆人がかえりみない母なる道(タオ)の乳房(ちぶさ)に養われそれを貴(とうと)いとすることである。
2020.09.18
『タオと宇宙原理』〈25〉第一章 日本の知識人の異常性
特にマスコミ人に代表される日本の知識人のあり方は異常であり、余りに無思考というほかない。変な言い方だが、日本においては「そもそも憲法二十条の思想信条の自由に抵触する!」のだ。にも拘わらず、知識人を自認する人たちは、この憲法を犯しているという無知を自覚することなく、宗教的なる思考を否定するのであるから滑稽である。面白いのは、第二項と第三項は声高に叫ぶのに、第一項は無視することである。
ではなぜ一項においても国からの特権を受けた特定団体の否定に言及しているのかと言えば、そもそもこの条項がアメリカ軍(GHQ)による国家神道へ対する否定を指していたからである。国家神道を利用して再びと我が国が軍事大国化しないことを明文化したものである。その結果、相対的に個人の信教の自由の権利の文字数が少なくなってしまっただけで、決してこの権利の保障が小さい意味なのではなく、実に重大な権利として憲法で規定されていることを国民は再認識する必要がある。
2020.09.17
『タオと宇宙原理』〈24〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆日本の知識人の異常性
科学はなくてはならないものであり、人類の未来を決定付けるものである。しかし、ケルヴィンの例でもよく分かるように、科学は絶対ではない。あくまでその時の知見にすぎない。それも間違いかも知れないし、正しかったとしてもそれだけのことで、それ以外は何も知らない「無知である」。謙虚を科学者は忘れてはならない。全智の中の一%も〇・一%も〇・〇〇〇…だってまだ知らないということを自覚し、謙虚であるべきだ。寛容でなければ、中世のように正しい知見を何百年も見過ごすことになるかも知れないからだ。
にも拘わらず、中世における宗教弾圧よろしく、現代に於いては学者という権威が世の中を支配し自分たちの価値基準に反する者を糾弾している様(さま)には、そら恐ろしいものを感じるのである。もちろん一部の人たちであって、全ての学者がそうだと言っているわけではない。しかし、一部でも彼らの発言には権威が与えられており何とも危険な思想である。我が国の恐ろしさは、それが市民レベルにまで浸透していることである。