ループ
第一章 記憶の旅
旅 路
追 憶
病でひとり娘を失った父親は自分にこう言い聞かせていた。
「神が与えたこの決定は悪いことではない。車椅子になるよりは良かったのだ」と。
彼は娘の死を受け入れようと、耐え難い力に抗して立ち直ろうと努めていた。
「人生とはいつも自分の望み通りになるわけじゃない。いい事もあれば悪い事もある…。きっとまた立ち直れる」
「残された者たちは前を向いて進むしかない。どんなに苦しくとも苦しみは捨て去るしかないのだ」
「人生とは悲しみの残骸を飲み込んで生きなければならないことは分かっているつもりだ」
「それにしても辛すぎる人生の試練である」
そして神に祈った。
「どうか悲しんでいる妻を助けてやってください」と。
イタリアの片田舎に生を営む老夫婦は、自分たちに課せられた試練に必死で耐える日々を送っていた。妻はまだそのショックから立ち直ることが出来ない。そこには人間の力では抗することの出来ない〈定め〉が立ち塞がっていた。夫は魂を失ってしまっている妻の姿を見て、自分までもが壊れてはいけないと決意していた。幸い彼らには二人の息子がいてくれたのがせめてもの救いであった。
心を癒やすために遠くに見えるアルプスの山々を眺めていると、この時間とは異なる別の世界を垣間見せられているような感覚が襲ってくる。この悲しみと虚しさは、遙か古より続く宿命の連鎖なのかも知れない…、と。
人はみな過去に身を委ねながら生きているものだ。喜びも、悲しみも、怒りも、悔しさも、恐怖も、そのすべてを心の中にしまい込み、その時々で〈いま〉に出現する過去に、人はされている。い過去が消え去ることはない。過去は常に〈いま〉となって人を襲ってくる。〈いま〉は過去の集積されたものにすぎない。〈いま〉とは過去そのものである。その〈過去なるいま〉に人は今日も生きている。次元を超える切なくも優しい風を感じながら…。
びの時は短かすぎる。人生は誰もがその一生を満足できるとは限らない。自分のやりたいように生きれば素晴らしい人生になるというが、自分らしく生きることが難しいことには、誰もがすぐに気付く。人はみな自分らしく生きたいと願っているものだ ─
人生はそんなに甘いものではない。それどころか自分の思いとは裏腹に、その逆の情況ばかりが出現してくる。人生とは何とも悲劇的であり哀れですらある。と同時に躍動に溢れ歓喜に満ちてもいる。君のように若い時はなおさらだ。記憶された時間は複雑な姿を見せて人の心をぶかのようにやってくるものだ。友と出会い、友と別れ、優劣を意識するようになり、自分の美醜が何よりも気になるようにもなる。そして君は、よく食べ、よく遊び、よく喋り、ケンカもし、そして恋をする。
日常の空間が違って見えるようになり、何もかもが輝いていることに気付かされる。緑は青々としてまぶしく、空気は清々しく身体に吸い込まれる。都会の騒音も田舎の静けさも、青春の只中で君の心に響き、こだまする。ビルの一角から、自然の緑から、青空を切り裂く飛行機雲にそして青空に舞う野鳥の姿に、かな未来をのぞかせてくる。
自然と触れ合う時や、映画に映し出された見知らぬ街のカフェで、テーブルにつき外を眺めているときのように、世界は何かを語りかけてくる。それは一瞬の静けさが心を支配し、何かがきかけるトキめく瞬間でもある。
一時の平和が心を支配したとき、おだやかな空気の中での幸せを感じている自分に出会うことがある。ちょっと立ち止まってみるひと時でもある。若い時は、これからの未来に少しの不安とそれ以上の希望を胸に抱いているものだ。
人は皆、それぞれの地で生まれ、人生をスタートする。それぞれに家族がいて、育ち、幸せも哀しみも辛さも風と共に通り過ぎる。時に絶望しながらも人を信じることで生きてゆけることを知っている。人生という物語は誰しも自分が主人公だ。「私」という主役を演じて、ひとりひとりの人生という劇場に、豊かな物語が描かれていくのだ。
人は皆、自由だ。自分の人生は自分で決められる。そう思っていた。子どもの時はのびのびと元気よく近所を走りまわったものだ。人目も気にせず大声で話し、大きな目で小さな世界に遊んでいた。そこには自分だけのがあった。心はどこまでも広がり、この世界よりも大きいときすらあった。その瞳はいつも輝いていたものだ。
公園の草花、木々の輝き、小鳥のさえずり、路地裏の歓声、クラクションの音、あぜ道を歩く時、水田の風景、山々の雄大さ、冷たい風…春の兆し…雨粒の匂い…。その時はいつも時間が止まっていた。
たとえ親から叱られて泣いていたときも、その心には大きな安心感があった。友と語らい夢中で遊んでいるといつの間にか日は暮れ薄暗く星すら見え始めることもあった。そんな時が誰しもにあった。幼い時の想い出は切なくも懐かしく手放すことの出来ない大切な記憶である。
優しい父の声、口うるさくも愛に満ちた母の声、笑顔の祖父母、声をかけてくれた近所のおじさんやおばさんたち。人生には多くの人との出会いと別れとが待ち受けている。人との出会いこそが人生ということが出来るだろう。そんな中でひとり〈自分〉へと帰るときが訪れるようになる。
泣いても笑ってもこの生は一回きりだ。自分の好きなように生きるしかない。
そして、人は人生に埋没しその使命を忘れ、この世界の真実の物語を語ろうとしなくなったのである。
風の記憶
風に触れていたときのあの心地よい記憶をたどることが出来るだろうか。
大地に足を下ろして立っていたあの時の記憶である。心地よい風が全身を包んでいたあの時のことだ。自分という意識次元の中で、ひとり立っていたあの記憶である。風はちょうどよいくらいに流れていき、全身に触れてゆく。肌をなでていく風の中で、心はどこか知らない世界を見てはいなかっただろうか。
季節が替わり春の穏やかな風のときも、夏のまばゆい太陽の下での快い風のときも、秋の殺風景で物悲しげな風のときも、冬の寒さが厳しい刺すような風のときも、大地に足を下ろした君はその不思議な風に知らない世界を見てはいなかっただろうか。厳寒のしんしんと雪が降り積もる世界に流れる静寂のように、そこにとしてどこか懐かしい精神を垣間見せられはしなかっただろうか。
大地に立ち世界の中心にいて、その深い世界と触れていた記憶があるだろう。誰からも邪魔されることのない自分だけの世界である。流れる時間は消え失せ、静止した時間に抱かれるようにして〈その時〉を体験させられるのである。
大地の薫りが漂い心を癒やすかのように風は身にまとわりついて去っていく。二重に三重にそれ以上に風が心に入り込み溶かすかのように日常から人を解放する。何もかもを忘れさせてしまうかのようにその風は心をとらえて離さない。その心地よさに時間が消失する。風は同時にきらめく光を伴って目の前を過ぎ去り、異次元へとうかのようにまたまとわり、んで消失する。
これはどこかで見た風景。しかしそれがどこなのかが思い出せない。どこかで体験したことのあるこの記憶、この懐かしい感覚、脳に突き刺さる匂い、吹き抜ける感触、かな呼吸に合わせて体内で響いている心臓の鼓動、空間が導いてくる次元感覚……心の静寂は周囲の騒音すら消し去ってしまう。自然は幾重にも重なって見え、何種類もの光を放ち色を放ち音を放ち匂いを放っている。鏡像の自分が三六〇度の全方位から意識され回転し、自我なる存在に初めて気付かされる瞬間でもある。自我の探究は〈自分〉との再会の最大のチャンスとなるはずだが、まだここでは君はそのことをまったく知らない。
眼から光が入り映像が脳に映し出される。耳から音が入り脳がする。鼻から薫りが入り脳を刺激する。肌は風を感じ〈何か〉を呼び醒ましてくる。一瞬のひと時が永遠の時となって君に襲いかかるかのように「引き付けの力」をもって君を支配していた。その事をこれから語ろう。
風が止んだとき
君は日常へと返りいつもの時が流れはじめる。「日常」この不可解なことばは現実に君を支配し、君の自由を奪い、君自身となって君を襲う。その日常の中へ君は今日もわれるのだ。君がまったく意識することなく、何の抵抗をすることもなく、君はいつもと変わらない日常を営み始めるのである。生きている人間とはそのような「もの」だ。「もの」とは〈者〉ではなく〈物〉であるのだ。
「人間とはそのような〈物〉である」
不思議なことに物質は化学反応によっていろいろな物へと変化していくのに人間は人間のままだ。庭の木だって木のままである。しかし、量子の世界では一切は固定されることなくすべてはを繰り返しているだけの泡のような存在でしかない。その意味では物質のすべては「ゆらぎ」の世界の産物であるのだ。ゆらぎこそが一切の真実であり、この世を支配する法則の扉を開く鍵でもある。
風の中にんでいるとき、心の中を通り抜けていく「何か」の思いがある。それは「無限」だ。心はどこまでも広がり、際限を知らない。どこまでも流れ行く風と共に心も自分の身体から流れ出て行くのが分かる。そして周囲ととけあい、融合していく。そこには〈自〉〈他〉の別すら感じられなくなる。時間の中の自分と空間の中の物質としての存在として、いまこの場に実存する自分を感じながら、それらとはまったく別の〈自分〉がいることにも気付かされるのである。
賢者がこんなことを言っている。
「何であれすのは不可能だ!」
何であれとは何であれである。人がやろうとすることのすべてについて、人は為すことは出来ないというのである。こんな事をいうと、私はこれもやったあれもやったという人がいるだろう。しかし、それは〈真実〉を知らないからだ。人は真実を知らない。〈真実〉とは存在の真実であり生きることの真実のことだ。
「行為」の真実も人は知らない。「私がやったと信じている事」もそれは誤りだ。ただの無知からきた回答にすぎない。〈私〉は何もやっていない。いま筆者がペンを走らせているのも〈私〉がやっているのではない。それは〈何か〉だ。〈何か〉が〈私〉を動かしているのだ。もちろん憑依霊などという次元の話ではない(笑)。君という〈私〉について話をしているのだ。
そもそも〈私〉とは何だろう?
人は〈私〉として生きているが、その〈私〉を知ることはなく、ただ〈私〉と思い込み信じ込んでいるだけである。〈私〉の影を踏むことすら出来ない。日々を楽しんだり泣いたり頑張ったりしているけれども、そうしている〈私〉を自分だと思い込み、自分のことを〈私〉というのだ。そんな〈私〉はどこにいるのかと訊かれると突然不安が襲ってくる。〈私〉はここにいるではないか─と確認するように自分に言い聞かせるように口にする。
「私は私に決まってるじゃないか!」
人は一様に皆そう叫ぶ。確かにそこにいるのは人だ。〈私〉という人がそこにいる。そしてその人は言う。あれもこれも〈私〉が為した、と。この本を書いているのは筆者のこの〈私〉だと、人は言う。
本当にそうだろうか!?
では訊くが、君なる〈私〉は何を知っているのだろうか。猛勉強をして一流大学に行った人は行っていない人より何を多く知っているというのだろうか。知っているのは〈言葉〉だ。ただそれだけだ。果たしてその〈言葉〉の奥の真実を知っている者は誰一人いない。ただパズルをつなぎ合わせるだけの〈言葉〉を知っているだけであって、〈言葉〉そのものの真実を知る者はいない。
そもそも「ことば」とは「こと」と「は」から成っている。「こと」には「言」だけでなく「事」のことも指し、重い意味があったため、軽い意味を指す「端(は)」を加えて「言端(ことは)」とし、和歌の影響で「言葉」となった。言の葉とは、かくの如き豊かなりではあるが、軽い意味でしかなかったものだ。それがいつの間にか権威者へと変身していくのだ。
そこから君の迷いが増大することになる。こうして君の人生は、不可解で謎に満ちた複雑怪奇な小説を語り出すようになるのだ。
人は何も理解していない
秀才と愚鈍と金持ちと貧乏とハンサムとブ男とどれだけの差があるといえるだろうか。〈真実〉の前にはそれらはすべて同じであって何の違いもない。ただこの世を生きるのに有利で「物の人生」で得をしているだけにすぎない。評価されるかされないか、金が有るか無いかだけのことで〈真実〉とはまったく関係ない。〈真実〉にとってはそれらは何の役にも立たない。それどころか、却って逆効果でさえある。
人は〈真実〉について何も知らない。
〈真実〉とは何か
〈真実〉とは明かされないものだ。及ばないものだ。誰もが興味がないことだ。だから〈真実〉を誰も語ろうとはしない。語ることが出来ないからだ。〈真実〉は目の前にあっていつも遠い淵の中に沈んでいるものだ。〈真実〉は追い求めれば求めるほど遠ざかってゆく。なぜなら追い求める者はただ〈言の葉〉だけを追いかけるからである。そんなところに真実の「こと」は存在しない。それは「ことば」からは発見することは出来ない。
人は自分自身を知らない
君がいつも用いている〈私〉という君は、自分の存在に気が付いた時にはすでにこの世に存在し、本当の〈自分〉を覆い隠していた。親や兄弟や近所の人たちがいて君なる〈私〉は始めから〈私〉だった。〈私〉ははじめは〈自分だけの私〉だった。目の前の物はすべて〈自分〉のものだったからだ。初めて目にするもの、耳にするもの、触れるもの、あらゆる物がしていて興味は尽きなかった。一瞬一瞬が興奮だった。〈自分〉は〈私〉を自覚することなく目に映る物に心を奪われていた。耳に聞こえるものに心惹かれた。肌に触れるものに刺激されていった。まだ〈私〉はどこからも自覚されていない。君は〈自分〉と同化していたからだ。