BLOG
『人生は残酷である』
2020.08.21
自然哲学へ還れ
それにしても、人は何のために生きているのかと私はいつも思う。このような現実を見るにつけ、哀しく思う。その過酷な状況から脱け出せない人びとにとって人生とはなんと残酷なのであろうか。果たして哲学はこの現実を変え得るだけの力を持ち併せているのかが、常にわれわれに問われていることでもある。生きることの本質は、日常の洗脳から解放されない限り、それを理解することは難しい。サルトルは神学規範(西洋の道徳律)からの自由を説いたが、実はそれ以上に日常的な洗脳からの自由こそがわれわれに問われていることなのである。
2020.08.20
東洋哲学は実践哲学
改めてこうやって西洋哲学と比べると、仏教哲学との差が明然として面白い。東洋の哲学は常に宗教性を帯び修身の意味合いを持つ。つまり、東洋哲学とは実践哲学であり、現在の西洋哲学は言語だけの観念哲学であるということができる。その点、ソクラテスのような命を捨ててまでの一貫した覚悟を有していない。人格性はまったく問われない。その意味では19世紀までの哲学には、まだ人格の向上についての実践が語られていたように思う。もっとも、20世紀とはいえサルトルの実践主義はこれらとはまったく異質のものである。
2020.08.19
一貫してこその論理
論理は常に一貫しなくてはならない。自分に不利であっても理が優先されなくてはならない。
紀元前399年、古代ギリシャのアテナイにおいて、最も偉大な哲学者ソクラテスは、政治家たちの策謀に遭い捕えられ「青年を堕落させた罪」で死刑宣告を受け従容(しょうよう)として毒杯を口にした。牢獄から逃げだせるようになっていたにもかかわらず、「脱獄の不正」を嫌い、何より自分が主張してきた正義と真理の正しさを主張するために、若きプラトンたちの前で命を絶ったのである。その瞬間、「人間は万物の尺度である」と言ったプロタゴラスの相対主義を、ソクラテスの絶対主義・絶対真理が打ち倒し、燦然と輝きを放ったのである。まさにこの時こそが、ただの屁理屈の学問だった哲学が絶対的学問へと進化した歴史的瞬間であった。
このソクラテスの一貫した姿勢こそが、いま憲法学者や教師たちに突きつけられているのだ。論理的に矛盾があってはならない。イデオロギーに支配されてはならない。ただ、真理だけを追究する者でなくてはならない。その真理追究者は、悪魔であってはならない。優しい情を持った者でなくてはならない。その上で一貫した理を説かなくてはならないのだ。ソフィストたちのように相手の揚げ足を取ることだけを考えているような人物になるべきではない。いまの政治家はそればかりだ。
2020.08.18
自我という錯覚
人が自分の自我を自覚しその許容される思考と行動とをともにするときに、どこまでが真に〈自分〉であり、どこからが他者からの意思であるのかという区別はされることがなく、人はただ自分と誤認して常に判断するのである。だがそこには自分の自我を優先すべきかという問題が常に存在する。にもかかわらず、人はその事実に立ち戻ることをすることなく、否、大半の人間はそのことに気付くことなく、いまここに〈認識している意識〉を〈自分〉あるいは〈自我〉と錯覚して、この瞬間に選択と決断を繰り返すのである。
2020.08.09
純粋思想としての〈自然哲学〉
その原理は人間にとって普遍性を有するものであり、万理に通ずるものとなるだろう。その意味において、この自然原理から導かれる哲学に生きる人間の魂と精神には現実を見誤ることのない確かな眼が養われるのだと、私は信じるのである。
その哲学とは、純粋思想にほかならない。「大道無形にして天地を生育し、大道無情にして日月を運行し、大道無名にして万物を長養す」との老子のことばが示す通り、天地自然の定めの中に生きんとする精神の発露こそが、誤ることのない道を眼前に顕わし示すのだと思う。いかなる哲学もこれ以上の生き様を有することはなく、これからの人類は壮大なる自然思想へと立ち還るときだと私は思う。
2020.08.09
生命の根源へ立ち還るとき
人は、生命の根源へと立ち還り、その法則性を原理として人生を把握し、真に生きることの意義を悟り得る社会へと変貌を遂げるべき時代へと、人類は来ているのだと思う。そう転換することにおいて初めて人類は進化という新たな局面を迎えることができるのである。
人間の知覚は未熟である。知性も未熟である。にもかかわらず、現代哲学者はえらく自信家である。有限のことばだけでいかにして世界を知り得るというのか。その滑稽さを自覚しておく必要がある。ソクラテスではないが無知の知の自覚がいまこそ必要な時代である。 ここに興味深いスピーチを紹介しよう。それはノーベル賞受賞者で量子仮説を提唱して量子力学への道を切り開いたドイツの偉大な物理学者であるマックス・プランクが、1944年、イタリアのフィレンツェで行なったスピーチの一部である。
最も明晰な科学と物質の研究に全人生を捧げた者として、私は自らの研究結果から、原子について次のことが言えます。物質というものは存在しません。すべての物質は、原子の粒子を振動させ、この極めて小さな原子の太陽系を一つにまとめる力のお陰によってのみ起こり、存在します。この力の裏には意識的で理に適ったマインド(心・精神・意識)が在ると仮定しなければなりません。この心(意識)がすべての物質の母体なのです。
なかなか興味深い内容である。要するに宇宙を創造した意識が存在すると語っているのだ。
2020.08.08
時代は変わる
時代はいつも若者に力を与えてきた。サルトルもその一人だったのかも知れない。そしてビートルズ同様に、いやそれ以上に、サルトルは知的エリートに強い影響を与え、政治的行動を促したのである。アンガージュマン。政治的行動を為せ! それは時代の合言葉であった。
いまわれわれは時代というその全貌を俯瞰することができる。世界中が揺れ動いた社会主義革命は百年もつことなく崩壊した。人びとは人間というものの愚かさをそこに見つめることで、その試みの価値を見出し、次の社会革命へといまだ夢見ている者がいることもまた事実である。そこには社会への不条理観が多くの人たちにあることを意味している。果たして次の文明がいかなる理論や主義をもって社会変革へと挑んでくるのかは分からない。
しかし一つだけはっきりしていることがある。それは必ず時代は変わるということである。ある時思いもしない大飛躍があることも未来の決まり事と言うことができるだろう。次の時代はAI(人工知能)革命であることは間違いない。それに対して、人類はどこまでそれを使いこなし制御しうるのかが次の課題となるだろう。既述のように、AIと人類の戦いがSF映画よろしく現実化することを、われわれは思考しておく必要がある。もしかすると百年後の近い未来において、人類はAIに滅ぼされる可能性すらあるからである。これは決して酔狂で語っているのではない。
2020.08.07
実存に見る神の否定と孤独
サルトルは言う、「人間はまず先に実存し、世界内に不意に姿を現わして、その後に定義されるものである」と。「人間は実存の後に初めて人間になるのであり、自らが決意選択した者になるのだ」と、主体性を持って生きることを主張したのである。何故に主体性を持ち得るのかといえば、神が否定され存在しないからであると説くのである。それまでは、神(キリスト教)が「人間はこうであらねばならない」と決定していたが、もはや神は存在せず、それ故、人は自らの本質を選び取った上で未来を創り上げねばならないと説いた。
その時初めて、人は神の束縛から自由を勝ち得たのである。この場合の神とはキルケゴール的にはキリスト教規範のことであり、サルトル的にはまさに神そのものの存在否定であった。その結果、サルトルを一つの不安が襲うことになる。拠り所のない不安である。指針なき不安であり、規定されるべき規範のなさが、〈実存の不安〉としてサルトルを襲ったのである。それは、サルトルに内在する良心の不安であったのかも知れない。ニーチェほどにニヒルになり得ないサルトルの弱さだったのかも知れない。しかし、実存の哲学とは、一切の思惟と決断を自己一身に引き受けることであった。
2020.08.06
問われる自我との対峙
実存哲学における〈実存〉すなわちexistence とは、人間の素(す)の状態を意味するものである。〈いまここにある存在〉の意であり、何らかの概念が生じる以前の存在を意味する。そしてそれは、われわれが自分や他者を規定するところのオス・メス的な分類分けや肩書や地位や評価などを意味する〈本質〉essence に先立って存在するものを指す。
ごく当たり前のことを語っているのであるが、われわれ東洋哲学を学んだ者からすると、〈本質〉という表現には極めて違和感があって、本質という本来的概念は、むしろ実存を指すことばであるはずなのだが西洋哲学においては、このような理解であるらしい。東洋哲学においては、常に自我との対峙が問われるのであり、そこには常に、自我に先立つ〈実存〉が前提である。しかもその東洋の実存は、西洋のそれに比してさらに奥深く、単なる自分や他者という社会的評価の産物であり自他からの評価の中での自分を取り除いただけの実存を意味しない。西洋における実存は東洋においては未だ自我の中に包摂(ほうせつ)されるものでしかないのである。その意味において、東洋哲学、なかんづく仏教や老子などの哲学性は遥かに西洋哲学を凌ぐものであることを理解しておく必要がある。
2020.08.05
無自覚であってはならない!
われわれは常に自覚しなくてはならないことがある。それは「無自覚であってはならない」ということである。人はあまりに無自覚に社会と関わり、あたかも自分の意思が如くに装って自己を表現しているという錯覚に陥っているのであるが、そこには〈自分〉などという存在はないのである。あるのはただ社会に取り込まれた部品の一部であり、無思考な行動の産物でしかないということである。
自分が〈自分〉として生きている限りにおいて、自分はそこに存在しているといえるのであるが、単に自分が他者や社会の流れに流されているだけの生き方であったならば、人は真に〈自分〉として生きているとは言えないのである。サルトルは、そのような無思考な生き方を〈即自存在〉と呼んで忌み嫌ったのである。そして人は自主的思考に立った〈対自存在〉として生きろと説いた。そのことによって世界の若者が人生に対してより積極的になったことは大いに結構なことであったのだが、残念だったのは、その自分の思考と信じられていた彼らの思考が単なる人まねでしかなかったことである。
2020.08.04
人生は不条理か
人生は不条理である、とは実存主義者たちの常套句である。不条理とはその背景に因果律が存在しないことを意味している。ニーチェ、ハイデガー、サルトルといった20世紀の寵児たちは、無神論的実存主義を説き、人びとをそれまでの因果論から〝解放〟した。その結果、それまで神(社会規範)によって与えられていた所与の世界の所与の人生の当たり前の事柄が、因果律として説明できなくなり、その結果として人びとの前に納得がいかない不条理が出現することになった。すなわちそれが体制批判の理由付けとなるのである。現代日本のエリートたちもその例外にもれず、この実存主義者たちからの影響を色濃く受けることとなった。もはや洗脳されたと言った方が正しいだろう。
その結果、世の中に氾濫したのが〈個人の自由〉である。義務を無視したところの社会に対する無責任であった。人びとは体制を否定することが正義だと教えこまれ、伝統文化といったものまでもが破壊されるようになった。男女のみさかいがなくなり、恥じらいなどということばは死語となった。わが国からヤマトナデシコが消え失せた時代でもある。東武士や九州男児といった意識も嘲笑の対象にこそなれ尊敬されることはなくなったのである。
かつて、世界中のエリートたちが持ち併せていた「民族の誇り」を日本人だけはすっかり失った時代である。この誇りとはソクラテスのような「命を賭す」といった精神へとつながっていく〈思い〉のことである。団塊の世代はこの〈誇り〉を見失った最初の世代となった。イギリスの歴史学者A・トインビーの名言「12、13才くらいまでにその民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる」の階段をわれわれ日本人は歩み始めたのである。
2020.07.28
自然哲学に立脚すべし
思考判断において人が常に謬りを犯しているのは、利害又は好悪のどちらかに立って論評することである。物事の正しいか否かは、それによっていかに人類が進化し文明が発達し文化が豊かになり人が幸せを実感するか否かによるのである。そこには一切のイデオロギーの入り込む余地はない。にもかかわらず、言論界を支配する左翼陣営は誰が喋っても、運動会で手をつないで一緒にゴールする的なイデオロギーを口にするだけで、不自然性からまったく抜け出せない。それは宗教のドグマから抜けだせない人びととまったく同類なのであって、そこからは他のイデオロギーとの対立しか生まれず、酷い場合は、固有の文化の破壊といった行動を伴ってくる。こうなると、もはやファッショ的要素を含み、ますます容認されることはなくなるのだ。それにしても右系は弱者に目が行かず、左系は伝統や国家観に目が行かないというこの偏狭さはいったいどうして存在するのか、私にはまったくもって理解できない。単に自分が位置しているところからのより大きい利益に反するという意識によるとしか思われない。
2020.07.27
〈考え〉を超越する
一方の東洋哲学の特徴は〈考え〉を捨て去るところにある。それ故、何かを説明するときには言外の言に重きを置いてきた。すなわち〈直観〉こそが重要視されてきたのである。この東西の価値観の差は著しく、西洋人にとっての東洋哲学の理解は困難を極めている。そういう中にあってキルケゴールの影響を受けて実存哲学を根本に据えたヤスパースは、当時フランスで禅の指導をしていた弟子丸泰仙禅師と親交を深め、言語を超えた世界を直接的に体験している。そのような中から彼は人との「交わり」を「愛しながらの闘い」と表現して重視した。彼などは、多少なり東洋哲学が理解できた人物だと思われるが、弟子丸禅師の評価は決して高くはない。何であれ、西洋人にとって沈黙は苦痛以外の何ものでもない。もっとも中国人の方がもっとそうかも知れないが。果たして現代の中国人に昔の中国哲学が理解されるのか、はなはだ疑問である。それはさて置くとして、かくの如く、言語によらずして西洋哲学の存在はあり得ないのである。
この点において、インド仏教に代表される東洋哲学も充分に言語を用いたものである。しかし、その言語の先に必ず瞑想(ヨーガ)という必然が存在し、言語に陥ることを厳しく戒めるのである。西洋哲学者たちは、言語の限界を認め、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と記した。だが、仏教哲学も老子もそのような次元の低いことを認めない。言語は人間が生きる上での便宜的道具にすぎず、言語が世界を規定することなど有り得ない。動物は人間的言語を持たないが、彼らは言語以前の知覚によって世界を広げているのである。聾唖の人たちのことを理解することでも分かるが、彼らは手話なりの言語を学習するまでは言語の世界に生きているわけではない。ならば、彼らにわれわれと同じような世界がなかったのかと言えば、決してそうではないのである。
2020.07.26
言語を嫌う東洋と言語にこだわる西洋
興味深いことは、東洋哲学は徹底して言語を嫌うのである。西洋の言語学とは根本的に異なる点である。西洋人がことばにこだわるのは聖書(新約=キリスト教典と旧約=ユダヤ教典)を暗記させられたせいかも知れない。またユダヤやギリシャの数字や文字にはそれぞれに特殊な意味が隠されており、そういったことも文言の分析といった学問へと発展したのかも知れない。聖書のはじまりが〈神の発することば〉だったことにも大きく起因しているのかも知れないが、何であれ、聖書からまったく離れてユダヤ人や紀元後のヨーロッパ人の哲学が発展したとは考えにくい。
この文言に呪縛されているユダヤ人哲学者は、ここから脱することは不可能だろう。日本人のようにいとも容易く「無思考に」自分の信仰や神を捨て去ることなど彼らにはできない〝神業〟であるからである。それにしても、ノーベル賞受賞者の多くがユダヤ人であることからも分かる通り、彼らは極めて優秀である。その根本の要因の一つに聖書があり、彼らをして学問へと向かわしめるのだと思う。
2020.07.25
哲学の根本的命題
それは、①なぜ自分なのか―。②なぜ存在するのか―。この二つである。
意識が有るとか無いとかは戯論にすぎず、デカルトが言うように「われ思う」からスタートしないことには何も解決しないのである。
2020.07.06
伝統的思考にこそものの本質がある
私には時間は有って無いものと映る。有るとは過去から未来へと向かう矢の存在であり、無いとは過去を見出すことはなく未来は未だ生ぜざるところのその間に位置する〈いま〉は存在し得ないというものである。しかし、われわれの実感として確かに〈いま〉は有ると感じられる。しかしその〈いま〉と感じるのは、脳の処理時間の関係で、実は常に現実よりもほんの少し過去のことであり、その意味ではわれわれはわずかながらも過去に生きている、ということになってしまう。しかし、それは脳・意識の能力の問題で客観的物体としての私は〈いま〉存在している。物理学的にはそれこそが〈いま〉であるのだ。
ここでわれわれが思惟しなくてはならないのは、絶対空間や絶対時間というものの不確かさである。そのことは取りも直さず、自分自身の存在の不確かさを意味するということである。そしてわれわれが日常に生きている〈現実〉という世界も実は不確かなのだということだ。その不確かさは、人智を越えた不確かさと、この眼前の世界を肯定した上での不確かさがある。前者については人には如何ともしがたいことだが、後者ならば、サルトルよろしくわれわれは、目の前の世界に自己の自由な意志を〈投企〉し、自己実現への道を歩むことができるということでもある。既存の価値観に振り回されず、他者の意思の奴隷にならず、己の確固たる意思を世間に表明し、自らの自由のもとに力強く生きることが示されるのである。
2020.07.05
過去も現在も未来も同時に存在する
さて、時間はどうして生まれたのだろうか。
われわれがそれを考えることはほとんどあり得ない。73億強の人類の中で時間を哲学する者など数えるほどしかいないだろう。なぜならそれは、生まれた時から当たり前のものだからである。われわれが生きるということは時間が経過することを意味したからだ。しかし、この目に見えない時間もアインシュタインの登場で一気に注目を浴びることになる。一般に時間とは時計とともに文明人には認識され、未開人には太陽の日の出と移動、日没、そして四季や乾季雨季、動植物の出現などによって日常的には認識されるものである。そこに心理的時間が加わってくる。
2020.07.04
時間は存在しないのか
時間を考えるとき、必ず言われるのが、心理的時間つまり何かに集中していると過ぎるのが早く、イヤな時は遅く過ぎる、子どものときは1年が長く、おとなになるとアッという間に1年が過ぎるというものである。ここではその心理については語らない。純粋に本質的または物理的時間について述べたい。時間は古くはギリシャやインドにおいて記述されており、プラトンの対話『国家』でも輪廻転生を前提とした議論がなされている。古代ギリシャにおいては黄金時代→白銀時代→青銅時代→英雄時代→鉄時代の5時代を1宇宙期としてそれが永遠に繰り返される円環的時間論が語られている。そこでは永遠という単位で人間が同じことを繰り返す愚が述べられるのである。これを循環史観と呼ぶ。ほとんど同様の内容が古代インドでもウパニシャッドやブラーフマナの文献に語られている。
2020.07.03
人は誰しもが宇宙の中心である
前回、「物質は最小単位になったとき、量子の状態では物質なるものはもはや存在しない」という物理学者のプランクの説を紹介した。それに対して、西洋哲学の観点では、「外界は、私の意識によって生じているもので、自分がいなくなれば世界も消え失せてしまう」「外世界も内世界も、唯一の自分だけの錯覚の世界だ」と主張することを述べた。
しかしその論理展開にはどうしても無理があって、自分が存在していようがいまいが外界は存在するのである。そのことに恐怖を抱き嫌悪したのがレヴィナスである。「明日、突然私が死んでも何事もなく存在し続けるこの世界が私は恐ろしい」と述べた。彼は空間的時間的存在のすべてを他者と呼んで、その他者に恐怖し克服しようとするのだが、自分自身の存在を危うくするものとして「他者を殺したい」と叫んだ。それは彼がアウシュビッツで死を覚悟したその時の叫びでもあった。自分がいようがいまいが存在する絶対なる「他者」、この自分の一切を否定してくるこの存在に圧倒されたのである。
2020.07.02
世界は存在しない
物理学者のプランクが言うように、物質は最小単位になったとき、量子の状態では物質なるものはもはや存在しないのである。ただ、振動あるいは波のような性質の「働きかけ」が存在し、その場を支配しているというのである。つまりそれは、われわれの身体も目に映っている景色も錯覚の産物でしかないというのである。物質は存在しないのだ。
だが、マクロに生きるわれわれには紛れもなく物質が存在し、いまも服を着こんだ物体がペンを持ってこの文章を書いているのだから、物質は存在しないと言われるとマクロ的にはピンとこない。だが、これが真実である。これは早100年前に発見されていることで、新しい知見ではない。実はこの事実を仏教は2500年も前からまったくその通りに説いてきたのだから、驚嘆する。現代のような科学も道具もないときに、この物質の本質を穿った教えには、ただただ敬服する。
マックス・プランク(1858~1947)は、1918年、量子論の研究でノーベル物理学賞を受賞した。
2020.07.01
錯覚としての実在
われわれは何の違和感もなく自分を演じ生きている。そして内なる自分から外なる自分へと意識が動いたとき、眼を通して外なる世界を認識する。正しくは眼耳鼻舌身意なる六根の働きによって外界を認識するのである。視覚として空間を認識し色や遠近形状を知るのである。耳は音、ことばを聞き分ける。鼻は周囲の匂いを嗅ぎ分け、呼吸という生命維持の重要な役割も果たしている。舌は味覚という生命維持のための食と密接な関係にあり、かつ言語を発する。さらに全身の頭・四肢・皮膚・内臓器を通して外を認識し関わる。そして意識がそれらを統括して自分とその周辺の諸々の現象を把握するのである。この六識をもってわれわれは自分の存在を認識するのだ。
2020.06.30
空間の考察
われわれは何の違和感もなく自分を演じ生きている。そして内なる自分から外なる自分へと意識が動いたとき、眼を通して外なる世界を認識する。正しくは眼耳鼻舌身意なる六根の働きによって外界を認識するのである。視覚として空間を認識し色や遠近形状を知るのである。耳は音、ことばを聞き分ける。鼻は周囲の匂いを嗅ぎ分け、呼吸という生命維持の重要な役割も果たしている。舌は味覚という生命維持のための食と密接な関係にあり、かつ言語を発する。さらに全身の頭・四肢・皮膚・内臓器を通して外を認識し関わる。そして意識がそれらを統括して自分とその周辺の諸々の現象を把握するのである。この六識をもってわれわれは自分の存在を認識するのだ。
しかし、失明したり失聴したりすれば、外界の把握は著しく困難となる。ところが近年の研究では、失明した人が「エコーロケーション(反響定位)」という手法で、コウモリとまったく同じ原理で物体を把握し、ほとんど眼あきと同じ状態になれることが明らかとなった。聴覚を失った人も、ちょっとした風の流れや匂いなどと連携して心で感じ取る(聴き取るではない)ことができる人たちを見出したのである。
2020.06.29
〈存在論〉ではなく〈自分論〉を
なぜ〈自分〉なのか―。この問題は永遠に解決しないように思われる。この話をし始めると、自分と他人の差について違いについて論じているのだと勘違いする人が大半であるが、そうではない。それは〈存在論〉なのであって〈自分論〉ではない。哲学者の大半が、この点に言及してはいないのである。意識の有無について論ずる者は多くいても「自分がなぜ自分なのか」という命題について論ずる者がない。もちろん〈他者問題〉としてそれらはある程度考察されてはいるのだが、決定的な思考へとは到っていない。それに触れる者はみな、ユングの集合無意識論を借用してもっともらしく語っているだけで、その実、彼らには何も分かっていない。
2020.06.28
どこまでが〈自分〉なのか
さて、誰もが何の違和感もなく〈自分〉を受け止めているのであるが、果たして〈自分〉とは何であろうか。というよりも、どこまでが自分の意識かということを少し考えてみたい。
10歳のときの〈私〉との出遇いは、余りにも衝撃的であった。私は、それまでのただ自己に執着しただけの自分から他者を認識した自分〈私〉へと階段を一段登ることになったからである。何より衝撃的だったのは、〈自分〉という存在の不可解さであった。その主人たる自分が存在する。だがそれは、他者においても同様で、それぞれの他者がそれぞれに〈自分〉を生きているのである。その他者の〈自分〉と自分の〈自分〉はあくまで相対的関係でしかない。
2020.06.27
〈死〉を分析する
前回、自分のこだわりを捨てることで、〈死〉に伴う苦悩を克服したことを記した。
しかし、座禅の境地に達する必要もなく、思考をもって分析することで、ある程度は理性によって死は冷静に受け止められるようにもなる。すなわち〈死〉とは何かと考えてみることである。
死とは、自分の思考の停止を意味する。単に一時的思考の停止なら気絶や熟睡の最中もそうだが、〈死〉は一時的ではなく永遠であるのだ。サルトル的に言うならば、自己が支配する〈対自存在〉から他者に支配され自己が失われた〈即自存在〉への移行である。永遠なる死はすなわち無であり、死んだ当人には意識がないのだから永遠すらもないということである。死の直後、遺体が存在する間は、死者を知る者たちにとっては、それは即自存在としての物となり、その後に焼かれるなり埋葬されるなりして、目の前から遺体が消えたときに、死者は遺族や友人たちの心の中に生き続けることになる。
2020.06.26
生きるとは何か
死ぬための人生は悲しすぎる―
生きてることに何の意味があるのか―
その後、少年期から青年期にかけて私の心を支配し続けるこの命題は、人生に対する目的意識を根底から見直させることになる。〈死〉はすべてを失わせるのである。愛のすべてを奪い去っていくのである。この事実を直視することは、当時の私には耐え難い苦しみであった。いかにそのことを忘れるか、意識しないかが毎日の課題でもあった。しかしそれは、毎日のように私に襲ってきた。生は常に死との表裏でしかなく、生は死そのものであった。この悲しみや不安感というものを一掃することになるのは、15歳から16歳にかけての元服の儀式としての切腹の疑似体験の特訓を1年間毎日のようにしたことによるところが大きい。さらに、瞑想を始めたことが決定的であった。
2020.06.25
〈死〉という宿命
昨日語った〈死〉なる命題についての続きである。
私の場合は、自他問題よりもこちらの方が重大で、決定的で、すべての私の精神を傷つけるものであった。その意味において私はニーチェに負けないだけのニヒリストでもあった。その眼前に立ちはだかるのは〈死〉問題であった。私の場合〈死〉の意識は祖父によって築かれた。祖父と一緒に住んでいた生後4年半のうちの、たぶん2歳以降における、朝の6時に起床して朝焼けとともに博多湾に漁船(ポンポン船)が往き交うのを見ながら庭先で歯を磨くというお決まりの日常の中で、祖父が毎日のように口にした「爺ちゃんが死んだら…」というフレーズが、私の生死観を決定づけたように思う。3歳時は常に母の死を恐れていたものだ。
こんなことを言うと、たまに2歳3歳の記憶があるわけがないと言う人がいるのだが、むしろ記憶していない人こそ問題があるのではないかと私は思ってしまう。因みに、私には母乳を飲んでいたときの記憶も残されている。厳密には6歳のときにそのときの映像を想起し、その記憶がおとなにまで引き継がれたものである。
2020.06.24
〈総体の私〉との出遇い
前回、10歳の筆者が〈私〉と初めて出遭った体験について記した。〈私〉とは、前回記したように、「他者の〈自分〉と自分の〈自分〉とを等価として理解し、なお且つ、その両者を統合せんとする意思を持つ者」を指している。
そこからの旅は時間的には決して長くはないが、精神的には限りなく重く長い旅路となった。一つの帰結は16歳のときに〈総体の私〉として訪れることになる。その間の背景としての人生体験なる苦悩は筆舌に語り得ないものがあった。
2020.06.23
〈自分〉と〈他者〉と〈他者の自分〉
世界には〈自分〉が自分以外にも存在する―
世界は〈自分〉だけのものではない―
ではこの自分とは果たして何者なのか―
〈他者〉も他者となればそれは〈自分〉でしかない―
それならば〈他者の自分〉はなに故に〈自分の自分〉に優先し得るのか―
ここにいるこの〈自分〉と世界中に存在する〈それぞれの自分〉は、
どちらがこの世における主体者たり得るのか―
2020.06.22
本来の素の自分
イエスが語る幼な子の自由闊達な〈自分〉のことに直接的に言及しているわけではないが、そのような何らの肩書や世間体を気にしていない素の状態の自分を、哲学者のキルケゴールは〈実存(存在)〉と呼んだ。それは人間の自意識や社会的評価から離れた〈本来の素の自分〉を指した。一切の概念に支配されない〈素の自分〉に立ってこそ、人間は人間たり得ると説いたのである。しかし、〈素〉とはよほどの覚悟がなければたどり着けない姿でもある。そう簡単に人は〈素〉たり得ない。キルケゴールは人以上に神の素たる実存こそを強く説いた。それは、信仰心の篤い敬虔なクリスチャンのキルケゴールにとって、原罪意識からくる〈不安〉と対峙する中での自分対神という一対一の関係性において求められた神の実存であった。それは、キリスト教のドグマ(教義)から離れた、人間の作り上げた理性倫理の神ではなく、本質的で普遍的な存在としての神であった。超人思想を説いたニーチェの「神は死んだ」も、実はこのことを指しているのだと私には思えるのだが、ニーチェは無神論的実存主義者に分類されている。
2020.06.21
〈自分〉という絶対的存在
〈自分〉は私自身の中核であり、なんぴとといえども入り込むことのできない存在であった。その〈自分〉は私にとって絶対的存在だった。もちろんあなたにとってもである。しかしそれまでは、そんな絶対的存在が他者に有されているとは思ってもみなかったのである。絶対的存在は〈自分〉以外に有り得なかったのだ。
2020.06.20
〈自分〉は自分だけではない!
それは、私が10歳のときのことであった。
いつものように狭い勉強部屋に入り椅子に座って窓越しに外を見た瞬間の出来事だった。窓の外にはまばゆい陽光とともに、いつもと変わらない田園風景と家並、そしてその先に博多湾が見えた。
その瞬間、私の脳裏に曾てない衝撃が走った。
〈自分〉は自分だけではない!
突如として襲ってきたその思惟はその日を境に〈私〉を決定づけることになった。
2020.06.19
自分はなぜ〈私〉なのか
それは、私が10歳のときのことであった。
いつものように狭い勉強部屋に入り椅子に座って窓越しに外を見た瞬間の出来事だった。窓の外にはまばゆい陽光とともに、いつもと変わらない田園風景と家並、そしてその先に博多湾が見えた。
その瞬間、私の脳裏に曾てない衝撃が走った。
〈自分〉は自分だけではない!
突如として襲ってきたその思惟はその日を境に〈私〉を決定づけることになった。
2020.06.09
西洋哲学と東洋哲学の希求するもの
西洋哲学はみな、ことばしか考えない。西洋人がそうであるからである。しかし、東洋哲学はことばにそこまでの価値を認めない。なぜならそれ以上のものを見出してきたからである。「言外の言」という言い方があるように、われわれはことば以上の存在やその奥の意味を理解することを求められてきた。それ故に、デューイではないが、ことばは道具でしかなく自己表現の一部にしかすぎないことをよく知っているのである。そのことがわれわれ日本人にはよくも悪くも作用しているといえるだろう。良くは穏やかさや深淵さであり、悪くは自己表現能力の低さである。西洋人たちの、否、ユダヤ人・西洋人たちの言語能力の高さを否定することはできない。この世がことばを中心とする限りにおいて彼らの存在は常に人類の中核であることを意味するだろう。
(『人生は残酷である』序章 自分の人生とは)
2020.06.08
われ思う、ゆえに〈われ〉あり
日々に葛藤がある。昨日も今日も明日も考える者には葛藤が付いてまわる。その葛藤を酒を飲んで、あるいは自棄食いをして、あるいは人にあたって忘れ、また同じ葛藤を抱いて明日も生きるのか、思惟してステージを一つ上げるのか、それはあなた次第でしかない。われわれは時間という乗り物の中で、〈死〉という終着駅を目指して単に生存している愚かな生物でしかないとしたならば、人生とは何と哀れで悲しく、残酷であろうか。
2020.06.07
精神的「その日暮らし」からの脱却
会社で評価されたことが人生の喜びとなり、会社で否定されたことが辛さや悲しみとなり、会社での人間関係が人生の人との関係となる。人生観は自己中心か周囲と協調するものであり、成功(幸福)者になることを目指して生きてきたのである。夫婦の戦いは解消されることはなく、子どもとの葛藤は見ぬ振りをし、親族や知人たちとの関係もただ流されるままでしかない。その日暮らしとは昔貧しかった人たちの生活苦を指すことばだが、経済的に恵まれた現代社会においても、人びとは精神のその日暮らしの中でしか生きていないのが実態である。毎日が同じことの繰り返しであり、ただ生活するためだけの人生を歩いているのだ。なぜ自分がこの世に存在するのかなどという哲学的思考などまったく意味を持たない生き様である。それこそが現実の〈生〉の実態であるのだ。だが、人類も、そろそろこの思考と行動のパターンから抜け出す潮時に来ているのかも知れない。
2020.06.06
われわれは「自分の人生」を生きているか
いつの間にか親の子としてこの世に存在し、学校に通うようになると日々勉強や教師や級友との葛藤に悩まされるようになり、自我の未確立故に不安を抱き続けることになる。そして、いつの間にか自分は他者によって規定される者となりはてていく。本来あるべきあるがままの自分は見失われ、いつも自身が感じる自分は素顔の自分ではなく〈対他存在〉としての他人によって規定された自分しか存在しなくなっているのである。しかし、果たしてそれは自分と呼べる存在なのかが問われてくる。
2020.06.05
自分らしさ
何もかもを忘れて自分らしく生きてみたいと多くの人が思う。でも、いざ自分らしく生きようとすると、何が自分らしいのかが分からないことに気付くのである。単に趣味に生きたいという人は、それで幸せかも知れない。しかし、心の淵を埋めたいと感じる者にとって、自分の存在そのものについての葛藤が克服されなければ、前へ進めないのである。
アドラーは、他人から承認される必要はない、人は他者の期待を満たすために生きているのではない、と説く。
2020.06.04
人生の葛藤
人生とは何を意味するのであろう。人間とは、果たして何者であろうか。誰しもに突きつけられるこの命題を人はみな心の片隅にしまい込み、日々を生きているものだ。自分の意思とは関わりなく、自分は突如としてこの世に生を受けた、と感じている。どうせなら生まれてこなければこれほどに苦しむことはなかったのに、なぜに日々葛藤し、苦悩して生きなければならないのか、と多くの人が不条理に晒されている。
2020.06.03
有機AIがもたらす未来と危機
さらに近い未来において、人類は一つの危機に直面しなくてはならないことを理解しておく必要がある。それは感情を与えられた人工知能(AI)の存在である。天才スタンリー・キューブリックが1968年に公開した映画『2001年宇宙の旅』のストーリーよろしく、遂にコンピューターによって人類が削除される可能性が出てきたことである。それを回避するためには、絶対にAIに本物の感情をプログラムしないことだ。しなければ、人類はAIの支配者でいられるだろう。だが、必ず愚かな科学者がAIに〝本物〟の感情を植え付けるだろう。その時から人類滅亡のカウントダウンが始まることになる。
2020.06.02
人の成長に欠かせない大自然の摂理
(一昨日、昨日に論じたエニアグラム「人間の9つのタイプ」について。詳細は、5月31日、6月1日のブログを参照頂きたい。)
これが分析のスタートラインなのだが、その意味するところは遥かに複雑である。このような親やここでは述べていないが兄弟等との関係が、大きく人格を決定することを私も経験上よく知るのである。人は例外なく親との葛藤を一生にわたって持ち続け、克服できない人は死ぬまで親を恨んでいるケースを私は多く知っている。その人たちにとっては人生は真に辛いものであり、いいおとながいつまで経っても親への恨みを語るのを聞かされるとき、彼らにとっての人生がいかに過酷であったか痛感させられるのである。
2020.06.01
人間の9つのタイプ(2)
昨日の続きを掲載する。
研究者の一人、スタンフォード大学のドン・リチャード・リソ氏によると、親との関係性を次のように分析している。なお、最後の性格特徴ほか一部の説明については、私の分析によるものである。これらの内容は「不健全」の場合の特徴であり、「健全」な場合にはまったく違う善的特徴を示す。
2020.05.31
人間の9つのタイプ
研究者の一人、スタンフォード大学のドン・リチャード・リソ氏によると、親との関係性を次のように分析している。なお、最後の性格特徴ほか一部の説明については、私の分析によるものである。これらの内容は「不健全」の場合の特徴であり、「健全」な場合にはまったく違う善的特徴を示す。
2020.05.30
人の性格は幼くして決定する
フロイト心理学では、5~6歳くらいまでに基本的な人間の性格が決定するといわれている。私は、それは10歳頃までの幅があるのではないかと思っているが、要は人は思いのほか幼い時にその人格の形成がなされるということである。
『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(通称ビリギャル 坪田信貴著)で有名になった心理学にエニアグラム(9タイプ別性格論)がある。巷の安っぽい性格占いではない。未だ狭い世界での評価しかないが、精緻な学際的研究が進められ、いまや心理学として確立された学問である。少なくともアドラー心理学より遥かに複雑で示唆に富んでいる。それによると、雑多に棲息する人間をその行動特徴から9タイプ(詳しくは18タイプ)に分類する。それらは幼児期における親兄弟等との関係性によって9タイプが形成されると説く。
研究者の一人、スタンフォード大学のドン・リチャード・リソ氏によると、親との関係性を次のように分析している。なお、最後の性格特徴ほか一部の説明については、私の分析によるものである。これらの内容は「不健全」の場合の特徴であり、「健全」な場合にはまったく違う善的特徴を示す。
(『人生は残酷である』序章 幼児期に性格が決定する!)
明日から、エニアグラムの9のタイプについての分析を掲載したい。
2020.05.29
生命が「生き延びる」という存在性
生命が生き延びるというその存在性には机上の論理を圧倒する現実が在る。生きるということの厳しさは筆舌に尽くし難いものがある。私は幼い時から、この種の自然界の弱肉強食の世界を見続けて生きてきた。そこには、生物の現場を通して人の生が重なり、生きるということの何がしかを教え込まれていったものである。すなわちその教えは、嘘を吐くな、正直であれ、真面目に生きろ!と同時に、現実は厳しいということでもあった。時には命を賭けた闘いがある。理想以上に、現実こそが真実として幼い私の心を捉えた。それは残酷なほどの生き様である。そしてそれが一つの価値観として私に定着したことを認めないわけにはいかない。