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『侘び然び幽玄のこころ』
2020.08.23
渋き「然び」
現在、一般には「侘び然び」と一つの単語、一つの名詞になってしまっている風がある。そういう意味では、どちらがどうと、今更あまり拘わらなくてもいいのかもしれない。
敢えて違いを言うとすれば、「侘び」の方がより質素で簡素な意味合いを強く持ち、「然び」は必ずしもそうではない、という点とも言えるだろう。
「然び」の概念は、平安時代に於いては仏教の無常観を指しているのだが、室町時代以降は、古びて味わいのあること、閑寂な趣を指してくるようだ。特に茶の世界に於いては、それが強調され現代に到っている。
さらに「然び」には〝渋み〟の意味が加味されることとなる。後世この概念が重要な美意識となって文化人を魅了する様になるのだが、実は、この概念こそが「侘び然び」を低次元へと引き落としたものでもあったのである。
2020.08.22
海外での誤解
では、凡夫でなくなった人たちが、侘びという言葉を使って後世に侘び観を伝えたのかというと、残念ながらそこまでの人は芭蕉等の数人を措いていないのではないだろうか。
彼ら先人が、現在に伝えているところの侘び観というのは、文献の中にしか存在せず、現代の茶や歌等の中には見出し難いと筆者は感じている。俳諧も果たしてその様なものがあるのか些か疑問である。特に茶道に於いては、江戸期に家元制が敷かれてからはブルジョアの典型となり真実の侘びは全く理解出来ない状態にあると言わざるを得ないのではないだろうか。
2020.08.17
侘び感と坐禅
筆者が坐禅に没頭していたのは、侘び感が最も有る十代の時期であった。上京して、ある種の孤独性、超然とした他との孤立感があった時は一層強まった。そういう時にこそ、坐がよく組めるのである。何故かと言うと、これは体質にもよるが、精神が非常に安定するからである。尤もこれは人によるだろう。気の弱い人はそうはならないかもしれない。元々気の強いタイプの人間というのは、辛い時、寂しい時ほど寧ろよく気が収まる。陽として表に出る気の強い人たちというのは、その様に陰の気が襲うことによって、バランスがうまく取れてきて、非常に落ち着いて坐禅が捗るのである。
であるから、そういう孤絶感の中で、侘び感というものを味わうということは、筆者は十代から二十代にかけて非常に強くあった。因みに、当時、曹洞宗永平寺の修行僧の一日をルポルタージュしたテレビ番組を見た時の驚きはいまだに忘れられない。彼らの食事風景が映されている時に、ナレーターの声が如何にも厳しい修行をしているという口調で「……粗食に耐えて…」といった内容のことを語ったのである。それを見た時、貧乏学生だった筆者は憤ったものだった。
2020.08.16
侘しい体験の昇華
「侘びしい」の原点となった、貧しい、着る物もない、食うものすらない、というその侘しさが高い知性によってより深められ、達観によって昇華されていく。それこそが「侘び」の世界なのである。
表面的なただの〝体験〟が、時を経ることによって、自分の感覚的な分析と、理知的な分析の両方が相俟って、そこにより深い感性を呼び起こすのである。その時によく味得することで体験は〝経験〟という言葉に変わり、「侘び観」がその内に生じるのである。
この侘び観を味わい得ることが出来ない人に、坐禅は出来ない。形だけの坐禅となる。何故この侘び観が坐禅を深めるのかと言えば、侘び観には諦めがあるからである。諦めがない者に禅は出来ないし、諦めがない者から、侘びの思想は見出せない。諦めとは諦観までに昇華されていなくてはならない。そういう意味では「然び」に於いても然りである。
2020.08.15
黒人霊歌やジャズと「侘び」
しかし、これに類似する感情は他の人種でも持ち合わせているのだ。同様に封建時代までの世界は、否、黒人たちの悲劇を見ているとついこの間まで、下層の人々は支配者によって苦難、否、恐怖を強いられ辛酸を嘗めさせられてきた。その彼らと日本人はどこが違ったのかだ。それは、日本人は抵抗して勝ち取るタイプの人種ではなく現実を受け入れるタイプの運命論者であった精神背景のせいだと思われることである。
一部問題があったとは言え、それを可能ならしめたのは謙虚を基本とされる天皇の存在であった。天皇の存在そのものが社会に歯止めをかけ、各地の権力を抑制していた為と思われる。世界の全ての国で横行した強い奴隷制を生じさせず、非人道的行為が他人種と比べて極めて弱かったことが、衆人に無抵抗的服従を受け入れさせていったのだと思われる。そこに仏教の無常観や末法思想などの影響があったと思われる。その諦めの人生観から、日本人特有の美が誕生したのだと考えられる。
2020.08.14
寡黙のなかの侘び
それは寡黙な百姓たちの叡智派に於いても同様だった。彼らには雅人の様な嫉妬の類に悩まされることはなかったが、只管貧乏という命との闘いと諦めとが日々に襲っていた。その中から叡智派は民衆の叫びとしての仕事や祭りや怒りや死そのものの中に「侘び」を見出し更に「幽玄」を体験していったのである。
百姓たちは、長じてから、自分がいま、ちゃんと飯が食えて、少しでも楽に暮らせている中で、ふともっと辛かった時のことを思い出すと、何とも悲しく切なく辛いのだが、それを受け入れることによって自己を客体化させ、そこに哲学的美を見出すようになっていったのである。
2020.08.13
侘びの根底にある「和を以て貴しとなす」の精神
家柄は貴族階級であったとしても、そこにも上下があり、プライドの傷付け合いがあり、惨めな現実とも対峙させられる。そういう中で自ずと醸成された美意識であったのだろう。しかしそれならば、世界中どこの人種にだって当てはまることである。何故に日本人だけにその美が見出されたのかと考える必要がある。それは、聖徳太子に代表される「和を以て貴しとなす」という精神だったのではないかと考える。他の国々では基本的に掠奪の精神史であり、日本ほど和を意識する国はなかった。わが国にも嫉妬や怨みなどが渦巻いていたとは言え、基本ベースが剣を持って殺し合う関係になかったことが大きいのではないかと思う。そうなると、一部の凶行に走る者を除き、権謀術数はあっても剣にて覇に生きない雅人たちには、出世出来ない者たちの悲哀が、一つの短歌として愁美さを見出すようになったのではないかと推察するのである。
2020.08.12
否定的体験が侘びへつながる
この「侘び」の思想が誕生した背景には、当時の日本人、或いは、その後の知性たちが、人生の憂き目に遭った時に郷愁を覚え、仏教的思想の中で清貧や無執着を肯定的に評価した、ということがあったといえるだろう。彼らは、生まれながらの選ばれた社会的地位と、更なる教養を身に付けることによって地位が上がっていくその過程に於いて挫折を味わい、短歌に侘しさや寂しさを表現するようになった。さらにそれを如何に知的な表現方法として用いていくかが知性の証明とされるようになり、それにより高い美意識が生まれることになった。
2020.08.11
室町時代は日本精神の黎明期
日本の「侘び然びの思想」が文献の中に出てくるのは、古くは奈良時代の万葉集(奈良時代七世紀後半~八世紀後半頃にかけて編纂された日本最古の和歌集)、そして平安朝の古今和歌集(平安時代九〇五年に天皇の勅令で編纂された最初の勅撰和歌集)の中にである。更に下って室町時代に入ると能やお茶や華道や俳諧といった世界で語られてきた。思想にまで昇華されない奈良平安鎌倉の時代には、わびは「わぶ」「わびし」といった使い方が多く、さびも同様で「さぶ」「さびし」「さぶし」といった使い方で、「わび」「さび」という名詞形は共に江戸時代に入ってから用いられたらしい。
2020.08.10
貧しく清く簡素である「侘び」
言語学的には「わび」とは、自分の意の儘にならぬ様を言う。文法的には、動詞「わぶ」(悲観する、辛く思う、寂しがる、困窮する)の連用形名詞である。
研究者や茶道家によれば、「侘び」は貧困から出てきた概念だという。その貧困性の中にある枯淡の趣を見出すことで生まれてきた美意識である、と言うのだ。
ただ「わびしい」だけでは侘びしいから、その状況を克服する形で見出されてきたのが前向きな諦めであり、いまを足る知足の意識だったのである。それはその人物の心に誇りを与えることが出来た。それが後に技芸に表現されるようになり、そこから出てきた美意識なる思想が「侘び」だったのである。
2020.08.03
西洋哲学を超える日本の「わびさび」
そこにはデカルトやカントが中心に据え置く「われ思う」や「純粋統覚(とうかく)かく」といった我の存在は否定される。「侘びや幽玄」は、一つの情性の上に成立するのであるが、それは遙かに一般的情性を超越し概念としての理性を包み込んで、静かな情感へと歩み寄らせ、その情感すらも置き去りにしてしまう感性という透明な意識がそこには介在しているのである。
2020.08.02
哲学としての「侘び然び幽玄」
昨日、以下のように書いた。
禅を始めとして釈迦らの説は言辞を捨て去り自我を捨て去り普遍の実体も思惟も一切を否定して、微塵の言語即ち価値観を侵入させることなく、自己の本能の意識も閉め出し、只、一点に向かう意識のみに物の本質を見出そうとするのである。その一点に向かう意思のみがダーザイン(独Dasein「存在」)であるのだ。だが、「存在」は西洋的思惟の中には一切見出せないのである、と。
そこにはデカルトやカントが中心に据え置く「われ思う」や「純粋統覚(とうかく)」といった我の存在は否定される。「侘びや幽玄」は、一つの情性の上に成立するのであるが、それは遙かに一般的情性を超越し概念としての理性を包み込んで、静かな情感へと歩み寄らせ、その情感すらも置き去りにしてしまう感性という透明な意識がそこには介在しているのである。 それは「われ思う」を超え「統覚」を超えて存在する。人間の生まれ落ちたるその定めの引力に抗することなく受容するその精神の高みを「侘び」と呼ぶのである。この「侘び」ではない生半可な茶の湯の「侘び」が世界を駆け巡っているとしたら哀れである。それはいずれ柔道がヘーシングに斃された様に客死するに到るであろう。
2020.08.01
カントの『純粋理性批判』と侘び然び
貧しい馬具職人の息子に生まれたカント(一七二四~一八〇四)は従来の常識であった客観的存在とそれに伴う認識を否定し、認識にはア・プリオリ(先天的)な「形式」が存在するとし、この「形式」が対象を構成させ、そこに認識も生じるのだと主張した。それは恰も量子論のボーアの確率論やユングの元型を彷彿とさせるが、現代にあっては然(さ)したる面白味もないほどの陳腐性を有するものだ。心理学や脳生理学の世界ではそんなことは常識であるからである。ならば、客観は存在しないのかと言えば明らかに在るのだ。しかし、それを認識する側の意識の作(はたら)きに於いて、それは二次的となり、第一次的認識が対象を自我の内に構成するのである。しかし、だからといってそれが正しいということにはならず、寧ろそれ故に間違いであるとされるのである。仏教的観点に立つならば、これこそが愚見の極みということになる。その意味ではカントもその昔、『純粋理性批判』の中でその点を指摘しているのである。そこまでは極めて常識的で何も問題はない。
そしてカントは良心からの「無条件命令」に人は従うべきと説いた。そしてそこにこそ自由があると主張した。これも悪くない思惟である。しかし、何とも哲学的でないことに、違和感を覚える。西洋人の好きな良心などというのは実に陳腐で凡そ哲学の産物と言うにはお粗末である。そして彼は形而上学的命題を理論理性の枠から除外し、その上で形而上学の再構と復権を考えていたのだが、完成を見ることはなかった。それは、彼が説く道徳法則がキリスト教規範から抜け出すことがないままの良心への帰属であり隷属であったからである。
2020.07.31
ロゴスとパトスを包含する「侘び」
デカルトは、キリスト教教義に反すれば死刑もあり得るというヨーロッパ世界観の中で精神と物体の二元論を説き、それが自然科学の発展に大きく影響したことはよく知られている。では、そのデカルトにとって「侘び」は思惟する我としてどう捉え得るものなのであろうか。彼がやったことは飽くまで事象の分析であって超越ではなかった。論理は常に言辞の枠から超えることは許されず、その結果として分析不能の事柄を切り捨てる。その意味では魂の叫びとしてのパトスも否定されることになり、真偽の領域から除外されることになった。だからこそ大量殺戮や公害などの禍を孕ませながらも、科学が発達する原動力となり得たのである。
だが、科学は、デカルトがいなくても発達進化したであろうことは容易に想像がつく。デカルトをそこまでの存在と規定すべきではない。科学者たちにも失礼である。所詮は限定されたヨーロッパという価値範疇から抜け出すことなく、しかも言辞の枠の中で、更に限定された意思を用いる方法で、果たして普遍的真理を見出せるのかという疑問が呈されるのである。デカルト的思考では、感情は一切の劣性と見なされ、感覚もロゴスに劣るものと見なされる。
だが、「侘び」は、そのロゴスとパトスとを包含したものだ。論理は飽くまで言辞をもって成し得、感情もその分析と共に言語化出来るものである。その上で現実に処した人生の選択としての侘びは、一つの哲学的思惟として人類進化の一つの形態として充分に認識仕得るものである。
2020.07.30
デカルト「物心二元論」の真の評価
「近世哲学の祖」として崇められているデカルト(一五九六~一六五〇)であるが、この物心二元論の祖の思想は、果たして「侘び」観を超えたものであったのだろうか。彼の意識から外されていったものにそれまでの神があった。ヨーロッパ人の思想を支配し教条的に縛りつけていたこの神から巧みに人間を解放したのである。それには人間讃歌を果たしたルネッサンスの後ろ盾があったことは否めない。こうやって彼は、分離された肉体について解体を始めたのであった。そして幾度もの思惟の最後に彼は「我あり」と叫んだのである。
「コギト・エルゴ・スム」(cogito ergo sum われ思う、故にわれ在り)という彼の有名な言葉があるが、果たしてそれは、ニュートンの万有引力の発見に匹敵仕得るものであったのかということである。どうも哲学界はそう言いたげであるが、そんな事はギリシャ哲学の時代からもインド哲学の時代からも中国哲学の時代からも有った。それを無かったという者は余りに無知なのではないかと言うほかない。
単に彼は、自分の思考の論理を人前に展開し、「われ思う」という台詞に収斂したに過ぎない。カトリック絶対の中で従来誰も言い得なかった、言うならば神への反逆をやった、そのことに対する高い評価と理解すべきなのではないだろうか。そうでなければ、こんなマヌケなことがこれほどに語り継がれるわけがないのである。
2020.07.29
「侘び然び幽玄」の背後に君臨する空理論
「侘び然び幽玄」という美意識は生に対する哲学でもあり、その背後に君臨する空の論理は西洋哲学を凌いで余りあるものである。その上にこの「侘び然び幽玄」が空の思想的展開として日本人を通して人類に人の存在を解明させてきたことを、自信を持って語るべきであるのだ。
「侘び」の中に自我や自己を止揚し、ニーチェではないが、絶対的原理の下に、自己超越を果たさんとする言葉を越えた強い意識にこそ、この存在の絶対性を見出せるということに我々は気付かなくてはならない。その超越する意識の前には、西洋哲学も上位とはなり得ない事を理解する必要がある。しかし、禅が説くが如き言辞の否定をするものではない。現実の苦難を昇華し、猶(なお)止揚仕得る論理性は常に「侘び」の中に胚胎されていることを茲に述べるのである。
2020.07.24
死さえも融解する感性
昨日、幽玄とは如何なる心情かについて、次のように書いた。
映画「最後の忠臣蔵」(杉田成道監督)の最後のシーンで、役所広司演ずる瀬尾孫左衛門(通称、孫左)が大石内蔵助と妾(可留)の子可音(十六歳)を嫁がせ、遂にその命を果たしたとき、主君の位牌を収める仏壇の前で自刃するその時の心情こそが、幽玄の正にそのただ中にあったと言ってよい姿であった。
今日はその続きを述べたい。
2020.07.23
幽玄とは如何なる心情か
映画「最後の忠臣蔵」(杉田成道監督)の最後のシーンで、役所広司演ずる瀬尾孫左衛門(通称、孫左)が大石内蔵助と妾(可留)の子可音(十六歳)を嫁がせ、遂にその命を果たしたとき、主君の位牌を収める仏壇の前で自刃するその時の心情こそが、幽玄の正にそのただ中にあったと言ってよい姿であった。
2020.07.22
天晴れ!
日本の幽玄は飽くまで優美の追求に終始している感がある。その意味では、次に挙げるのはなかなか優美であり、何より命を捨てた城主の覚悟はあっぱれと言う他ない。屈原を遙かに凌ぎ、幽玄の極みと言うことが出来るだろう。この前には観阿弥も世阿弥も全く存在感がない。「天晴れ!天晴れ!」
一五八二(天正十)年六月、備中国高松城主の清水宗治は、織田信長の命を受けた羽柴秀吉軍の水攻めに合い降伏。秀吉が出した条件を呑み、兵士の命を助けることを条件に死を選んだ。その時、宗治は信長の死を知らないまま、城を囲む秀吉軍の前で水面に船を漕ぎ出し、船上でひとさし舞を舞った後、辞世の句を詠んで優美に切腹した。 宗治の見事な切腹と介錯の作法がそれを見た武士の間で賞賛され、それ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が定着していったという。
2020.07.21
哲学としての幽玄
載営魄抱一 営える魄を載んじ一を抱いて 霊より汚れし魄を除き一なる道を抱きて
能無離乎 能く離れしむる無からんか そこから離れるな
専気致柔 気を専らにし柔を致して 呼吸を整え
能嬰児乎 能く嬰児のごとくか 赤子が如くに浄まり
滌除玄覧 玄覧を滌除して 幻想を除き
能無疵乎 能く疵無からしめんか 曇り無きようにせよ
茲に出てくる玄覧の玄とは本来の深い意味と異なり、この場合に限っては幻と同義に用いられている。この場合の玄は、日本人の幽玄の玄とかなり近いものとなる。だが老子は、それを取り除けと言っているのである。即ち、お前の真の霊(一)こそが本物であって、その一にこそ心を向けて離れてはならんと言っているわけである。わが国に於ける幽玄観には、この種の厳しさは一切見受けられない。
2020.07.20
幽玄は叡智の表象
日本人の幽玄観には、真理探究が欠落しているのである。何を以て天地の法となし、何を以て魂の救いとするのかという最大の命題を日本人は見出さぬままに、万葉の時以来現在に至るまで生を営み続けてきたのである。そもそも幽玄は、大地に汗を流してきた者の叡智に対して表象したものであり、それは何千年にも亘って顕われてきた。
2020.07.19
幽玄は魂の叫び
世界で語り継がれる日本映画の『雨月物語』や『耳なし芳一』などの映像に残された幽玄観は、常に儚く、黄泉との繋がりのみに依存してそこから抜け出すことがなかった。その映像も描写も欧米に於いてはエキゾチックと映り、大いに高い評価を受けてきた。それだけに、幽玄は、ただ死霊との関わりを美しく描くことだと勘違いさせられた人は多い。だが違うのである。幽玄はその様な浅い境地ではないのだ。この結果を導き出したのは、その全てが能にあると思われる。それは正にエキゾティズムそのもので、その観念の定着は、千年の時を経て常識となり、日本人の精神へとなり得たということだろう。
2020.07.18
「幽玄」というまどろみ
一方、中国楚の詩人・屈原が洞庭湖に身を投げたそれは「公の死」を呼び起こし遂に端午の節句に祭られるに到った。彼の詩「離騒」に代表される憂国の思いには真摯な誠が有った。その姿には幽玄が垣間見えてくるのである。それは屈原には太宰が如き醜い欲望が存せず、清らかであったからだ。
幽玄の死は侘びの死と共通するものである。だが侘びと決定的に違うことは、幽玄には一層の美が要求されることである。視覚的で明らかな美がそこには存在する。それに比して侘びにはその素直な美の麗しさは皆無である。一方、「侘び」に有される徹底した孤絶観や透徹した空観は幽玄には無いのである。
2020.07.17
幽玄は黄泉の国への誘い
黄泉というと如何にもおどろおどろしい世界と感じてしまうのだが、幽玄に惹かれる心の奥には、出来るものならば塵世を離れて、天女が住む世界へと、仏国土へと転生したいという想いがあるのである。かぐや姫が竹の中に転生し、最後にはお迎えが来て天(月)に還る様に、人もまた神仏の許へ帰らんとする意識こそが幽玄観なのである。インテリを自認する人々が、然びの感性で幽玄を求めようとしても、そこに見出すのはせいぜい能レベルのものであって、それ以上になることはない。彼らには、地面に這いつくばった原体験が不足しているからである。何より土の匂いそのものが体に浸み込んでいる者でなくては、天へと昇るほどの幽玄には巡り会うことはないのだ。
幽玄は美ではあるが、単なる美ではない。そこには、「侘び」同様に「生命」を賭した覚悟が求められているのである。その体験を幼い時より経て来た者でない限り、この「幽玄」も「侘び」も現前せし美として昇華するだけのものには成り得ないのである。
2020.07.16
幽玄と心の大きさ
筆者の幽玄観にはもう一つ重要な映像がある。それは正に陽中の陽たる幽玄観である。それは堂々の昼間、数キロメートルの幅を持つ海や草原や砂漠など平坦な地を隔てた所の向こうに、幾重にも重なった小高い山々が深い連なりを見せ、尚且つ、その連なりが前列から最後列に至る濃い緑から青へ、そしてだんだんと色が変じコバルトブルーから紫を生じてさらに白へと変じ空と一体化していく景色である。正統的幽玄とはまさにこの景色に他ならない。
この光景は写真にもよく撮られているし、多くの人が目撃しているものと思う。しかし、同じものを見ても、それが魂にまで響く者と、心にだけ響く者と、単に綺麗と思うだけの者と、何の感情も生まれない者との精神の差は甚だしい。この一点の差によって芸術も真理も万民のものとなり得ることは很だ難しいのである。常日頃からその己の魂を磨いてこなかった者、即ち一刻一刻を生き死にの覚悟をもって生きてこなかった者たちには、到底理解仕難い精神の美たる哲学が有されることはないのである。哀れなことは、そういう者に限って出世し、世のリーダーとなって誤った舵取りをしてしまうことである。
2020.07.15
天理の成さるるを諦観する
人々は、(幽玄など)その様な美を求めることで平安が得られているということである。人類学者はすぐに太古原始時代の話を持ち出し、獣に襲われるかも知れない闇の中で、大地を照らす月は安心の象徴であったと言うのだが、まあそれも遺伝的に一理有るとしても、それ以上の心理が有されていると見るべきである。それこそが正に「美」であるのだ。美への欲求が美しき幻想への感動を与えていると素直に認めるべきである。
それは、魂の回帰と言うべきなのかもしれない。何故なら、幻想も幽玄も、そこには常にこの世を離れたあの世が意識された美意識であるからである。幽玄を語る時に、〝あの世〟なる異次元感を無視することは絶対に許されない。
2020.07.14
人々に平安を与えてきた幽玄の世界
それ(幽玄)を受け止める側のこちらにもいくつかの条件がある。何より素直な人間性を有していることだ。美的センスも要求される。寒さや暑さに心を引かれている情況下では、いくらこの様な光景が生じても、幽玄観は生じ難い。花火大会なら感激するだろうが、繊細な感性が要求される幻想の世界、陽性の幽玄には、体温がある程度健全な形で保たれている必要がある。但し、陰性については必ずしもその限りではない。猛暑や寒冷の中で体が悲鳴を上げている時にも、それは出現することが可能である。それでもその瞬間には、寒暑が一瞬消え去る感覚を覚えるだろう。
2020.07.13
透き通る陽性の幽玄
ここまでの劇的な感動ではないが、静かに深くそして長く筆者の心を支配した光景というのがもう一つある。それは、少年から青年期における日常の中の幽玄の表出であった。日常の通学路を月夜に通るとき、ある一角に来ると目の前の湾に、その月が映りその光が水面に乱反射する様がこの世のものとは思えない美しさで、穏やかな漣に揺れるその光は幻想そのもので、その澄んだ空気感はわが心を捉えて離さなかった。それはとても平和である。過去劫来の時と未来永劫の時とが共に一つとなって顕われたが如きである。もう余りの美しさに心が溶けて無くなってしまいそうで、その絵が如き情景はその後も現在に至るまで、筆者の幽玄観の輪郭を成すものである。
日常的な光景であったにも拘わらず、それを目にする為には、月の出現時間と帰宅が遅れることが必須条件だった為に、思いのほか鑑賞の日々は少ないのではある。もう一つの問題は、それを見る為に佇む場所がなかった為に、そこに立って見ていることが「変な人」になってしまうという日本人の狭量性故に、それ程感動していながらも、見続ける時間はせいぜい数分であったという悲劇があった。今やその様な景色を見る機会も場所も全くない現在、もっと沢山、何より写真に収めておくべきだったと後悔しても遅いのではある。
2020.07.12
陰中に出現する陽性の幽玄
筆者は、既述している様に、生家に於いて毎日の生活の中で陰陽それぞれの幽玄を目撃し、自分の心の中に刻印されてきた事である。だが、その現場に立ち会えば誰しもに幽玄が表出するかといったら微妙である。陽の強い幽玄には大半の人が心惹かれる共通項が有るが、陽性を帯びた陰性の幽玄には、必ずしも万民が美を見出すかどうかは難しい。その意味に於いて、わが生家の厨房の窓からの陽射しは、見解の別れる所となるだろう。鈍感な人には只の洩れた陽射しでしかないからだ。
2020.07.11
生きる「儚(はかなさ)さ」を抱く陰性の幽玄
一極は陰陽二極に分岐した形で物理も心理も支配し作用していることを知る必要がある。その力によって陰陽の幽玄も出現する。それは、自然科学的には否定され、芸術や文化の世界に於いてのみ評価されるものとして語り継がれてきた。
もっとも容易な例を挙げると次の様な差異がそこにはある。
Ⓐ人里離れた森の中に祠が在る。その祠は朽ち果て黴や苔が生え、蜘蛛の巣が張り、足元は泥濘んでいる。空気は淀み、見るに汚らしい。この祠には幽玄は表出しない。
Ⓑ人里離れた森の中に祠が在る。その祠は苔が付き朽ち果てながらもその威厳を留め、その足元は乾燥し昼間には木洩れ陽に輝いている。この祠には幽玄が表出している。但し、その周囲の森が無秩序的な気を放っている場合には注意を払う必要がある。
2020.07.10
民族が継承してきた深い闇の表出
陰湿な場が神秘性を有する為には、そこに一瞬の乾燥した空間が必要となる。それは、そこに立ち入る人間の心の内に生ずるものでもある。言うならば、それは精神のゆらぎでありそこから生じた美であり、自己のアイデンティティに触れる某かの記憶の産物でもある。つまり、陰性と言っても、そこに幽玄観が見出される為には、只怖いや薄気味悪いでは不可能なのである。仮令陰性であっても幽玄である限り、それは恐怖の対象であることはないのだ。茲の所は明確に分析しておく必要がある。そうでなければ幽玄は美とはなり得ない。
誰しもが感動する陽性の神秘性とは異なるとはいえ、幽玄は陰性であってもそこに神秘を表象しているのである。だからそれは何らかの心理的惹き付けの対象であって、美を表現するものであり、決して恐怖感を伴わせるものではない。だから、もし、あなたが「怖い」や「薄気味悪い」と感じたならば、その場は幽玄とは言わないのである。
2020.07.09
陰性としての幽玄
そこで、陰陽としての幽玄の具体的な姿を茲に紹介する。それは、誰しもが知るありふれた情景でもある。では、同じ視覚の対象が何故に人により異なって見えるのかと言えば、それは夫々の感性の違いという以外にない。特に陰性については、合理主義的には迷信を信ずる者か否かの差ということにもなる。芸術論的には感性の豊かさと貧弱さの差ということになり、脳生理学や心理学的には錯覚や不安の産物ということになる。民族学的には蓄積された民族の記憶ということになる。
2020.07.08
幽玄に見る陰と陽の相補関係
筆者にとっての幽玄は、生まれながらに到る所に在った。それは住んでいる茅葺きの家そのものが正にそうだったからである。街灯などという気の利いたものがない時代、村自体が幽玄や侘び世界の一部でしかなかった。いまでも各地のど田舎へ行けばそんなところは到る所にあるものだ。夜になれば村全体が真っ暗になった。星は都会の何倍も輝いて見えた。家の土間にもそのうえの屋根裏部屋にも藁が積み上げられていた。その屋根裏はいつも薄暗く、梯子で一人上っていくことには抵抗があった。祖父母の部屋も薄暗い中に古めかしい箪笥が並んでいて、一度も可愛がってくれなかった怖い祖母が居て足を一歩も入れることが出来なかった。一方、大好きだった祖父とは火鉢でおにぎりを焼き、如何にも平和裡な空間の中にいた瞬間も幽玄の一時であり、また侘びの世界でもあった。
2020.07.07
黄泉の世界を垣間見せる「幽玄」
「幽玄」というと日本の解説書では第一に能が出てきて世阿弥の思想などが紹介されるのであるが、果たして能の幽玄は真に幽玄なのだろうか。あの独特の節回しは文句なく合格と言えるだろう。能楽も正にピッタリである。しかしそれでも『風姿花伝』や『花鏡』に幽玄という文字はあっても、真なる幽玄が有るとは筆者には思えない。不充分だと敢えて申し述べたい。否、そもそも世阿弥は幽玄など語っていないのかも知れない。能の幽玄は拙著が説く大地の幽玄や中国に源を置く幽玄とは根本的に違うのかも知れない。単なる芸能の産物なのかも知れない。もしそうだとしたならば、拙著は古来より伝わり、また大地に根付いた所の幽玄について述べることになる。
2020.06.18
千年の時を経た生
(風呂焚きの)材料の薪作りは、近所の農家の玄関先を使わせてもらっていた。祖父がそこに山から採ってきた間伐材を並べて寸法通りに均等に切り、いよいよ薪割りの開始となる。六、七歳の頃には筆者は薪割りでは名人の域に達していた。巧みに足先に薪を挟み、その先に思いっきり斧を振り下ろして真っ二つにするのが得意だった。いまそれをやれと言われるとほぼ間違いなく指を切り落とすだろう。何ともマヌケな都会人に成り落ちたいまの自分の情けなさを哀れに思う。それは実に充実した作業であった。TVゲームなど到底敵わぬ精神の充足がそこにはあった。
2020.06.17
日々の営みを受け止める感性
二歳頃からは、毎朝六時に起きて、庭で祖父と一緒に目の前の海を眺めてポンポン船(漁船)の往来に耳を傾け、その海を隔てた先の朝日を拝しながら歯磨きをしてその日がスタートしたものだ。祖父はいつも「じいちゃんが死んだら、あの畑はあんたにやるけんね」と語っていた。それは繰り返し祖父の口から発せられたことで、幼い筆者の心に「死」が明瞭に刻印されていくことになる。
2020.06.16
幼少時の体験が創る「侘びの精神構造」
更に筆者の幼少から小学生の間の日常の一コマを切り取って紹介したい。
当時の田舎での出産は正に文字通りの生家であり産婆によって取り上げられたものだ。たったそれだけのことが、その母親のメンタリティに大きく影響し刷り込みが生じることを余りに学者たちは無視しすぎている。「生」は産む側にも産まれる側にも無意識の刻印をその時に為すのである。鳥の雛が初めて目にする動くものを親だと思い込むように、人の子も初めて体に触れる布やその匂いや感触や耳に聴こえる数々の音や手触り、そして目にした光景が、その子の一生の性格を決定すると言っても過言ではないのである。その刻印は驚きと同時に無常観でもあるのだ。
2020.06.15
人が生きた証としての歴史
筆者にとって、歴史の理解はいとも容易い。それ故、時代劇など歴史物をテレビで観ていると呆れるばかりである。つい最近の出来事である戦時下の再現映像にしても、余りに日常の理解がなされていなくて、目を疑うばかりであるというのが日本人の悲惨な現状である。
2020.06.14
日本人の精神の歴史
幼少より耳に馴れ親しんだ「しろしい」という言葉は、毎年の梅雨の時期を重ねる度に筆者に深い思いを持たせる様になっていったのである。それは、果てしなく続く日本人の精神の歴史そのものであったからである。そこには抗し難い無常輪廻観と諦めと感謝と物憂げさと微かな希求とがあった。
2020.06.13
人に与えられた「定め」
洗濯物が干せなくなるのもこの季節の特徴の一つだ。黴もまた然り。農家などで洗濯物が多い家では、何もかもが黴臭くなることへの戦いが始まる時でもある。これは関東でも多少は共通する所ではあるが、その比ではない。パンに黴が生えた経験は誰しもにある。現代ならば自動洗濯乾燥機などがあってすっかり農家も様変わりをしたのだが、昔はそうではなかった。都会の様に、車で何もかもが解決することもなかった。何もかもが人力で前に進むしかなかったのである。
2020.06.12
雨の中の農作業
筆者の里では、巨大台風よりも梅雨の方が辛かったものだ。五月下旬から七月初旬にかけての一カ月半に亘る梅雨は、精神的にきついものがあった。その間、太陽を見ることが稀であるだけでも憂鬱になってくるのだが、それ以上に辛いことは、毎日降り続ける長雨である。凡そ本州の人たちには理解出来ないであろうこの長雨は、「シト、シト、シト、シト…」間断なく降り続けるのである。決して大雨ではないが、小雨が一カ月半も降り続けるのだ。勿論、降り止む日もあるが決して晴れることはない。初夏というのに肌寒く、心までもが滅入ってきそうになる。
2020.06.11
大自然から学ぶ精神の昂揚と諦観
だが、筆者はそんな台風が嫌いではなかった。学校が休みになるからばかりではない。その荒れ狂う大自然の猛威に晒されていることが、何故か心地良かったからである。海は荒れ狂い小さな船を呑み込んでいく。その様な時に船に乗れば、巨大な波の中にすっぽりと船影は隠れ、自分の目線の数メートルも上から、その荒れ狂った波が襲ってくるのである。それは当時の筆者にとって生きているという強い実感が持てる「生かされた精神」の満ちる時であった。幼い時より一度としてそれを怖いと感じたことはなかった。
2020.06.10
日本人を決定付けた梅雨の存在
「しろしかねー」
筆者が幼い時よりしばしば聞かされた言葉である。「しろしい」の変化した語である。それは、梅雨の時のみに用いられた季節限定の言葉である。筆者が生まれ育った九州は、関東などでは全く思いもしない程の量の雨が降る地域である。ただの普段の雨も関東の人が出遭うと豪雨という驚きになる程に、雨に対する本州の人たちとの感覚の差は埋め難いものがある。経験的には本州の人たちも台風を知っているのだが、毎年当たり前の様にその暴風雨に晒される九州人にとって、それは日常の一コマであり受け入れなければならない「定め」でもあるのだ。その度に川は氾濫し田畑は荒れるのである。
2020.05.28
美しい「地に足が着いた侘び」
では、「侘び然び」を最も実践し、日常の生活そのものにしている人たちは誰であろうか。それは昔ならばイタリア、アッシジの聖者フランチェスコとその仲間たちだった。彼らは禅よりも勝れた無一物を実践した。現代なら、アメリカのキリスト教復古主義のアーミッシュの人たちである。
2020.05.27
侘び然(さ)び幽玄は死を見据えた生き様に宿る
日本人への平等教育の洗脳が、わが国民を蝕み、いまや崩壊寸前である。「侘び然び」を我々が語る限りに於いて、この面構えは絶対に排除することが出来ない事であるのだ。以前の日本人の方が圧倒的に面構えが良かった。ハンサムでも長身でもなかったが、顔に皺の刻まれた男たちには魅力があった。女たちも大らかで、いま時の女たちと違い器が大きかった。温かかった。その一つ一つが「侘び然び」を成立させる条件であることを、いまや日本人は忘れてしまっている。
2020.05.26
俳優の面構えと侘び然び幽玄
筆者はヨーロッパとハリウッド映画を見て育った。そこには常に渋い男たちがいて、重厚で魅力的だった。その街並みにも魅了されたものだった。同時に多くの日本の時代劇も見たものだ。いまのチャチで威厳も何もなく情けないだけの大河ドラマと違って、当時のそれらには存在感があった。歴史や人の重みがあった。
2014年に83歳でこの世を去った高倉健氏が演じたのは、渋さであり、それは「侘び(わび)」ではなく「然び(さび)」だったのである
2020.05.25
忘れ得ぬニュージーランドの風景
筆者が旅した中でこの場にずっといたいと思った所の一つに、ニュージーランドのクライストチャーチから山奥にドライブに行った時だったろうか、そこは温泉施設の近くだった様に記憶しているのだが、一軒家しかない小さな入り江に数十メートルの長い木の桟橋が突き出ていたのである。
2020.05.24
烈々とした存在感に「然び(さび)」漂う古代遺跡
その点、ヨーロッパや中東の古代遺蹟には目を見張るものがある。その存在感は烈々として見る者に迫るものがある。イギリスの影響もあって、戦時下のイスラエルでさえ建築物に使用する石の種類が統一されていたのには驚いたものだった。ヨーロッパ文明下にある国は、その景観について本当に考慮しているものである。それに比較してわが国のこの貧しい風景は落胆するばかりである。この状況に果たしてあなたは、それでも日本こそが「侘び然び」の中心国であると言い得るであろうか。
2020.05.23
ヨーロッパの「然び(さび)」
では「然び」はどうだろうか。
「然び」とは、内から出てくる輝きの事である。それは整然としたものでもある。侘びが簡素なのに対して、より艶を持ったものである。勿論それは抑制されたものではあるが、数寄屋の様に決まった形を造形し、茶会の様に美を意識する演出を行なう。簡素は同時に整然さを求められ、古きが尊ばれる。渋い色合いを見せて落ち着きがあり時を遡る奥床しさなら、ヨーロッパの古き街並みを歩くといい。全ての条件が具わっている。果たしてこれだけの条件をクリア出来る街が日本のどこに在るだろうか。
2020.05.22
ヨーロッパの乾燥した「侘び」
「侘び」を感じさせるミレー「落穂拾い」
一方、ヨーロッパ人の中の「侘び」はもっと乾燥している。日本人の様にジトッとしていない。彼らの陰性は日本人同様に実は自己否定を持ち合わせている。その様な者は、より思索的で静かである。しかし、どんなにそうだったとしても、自分に利害が生じた時には激しく戦うことを避けることはない。もしかすると、この「ヨーロッパ型の侘び」の方が「実践的侘び」として正しく機能しているのではないかと思う程である。
2020.05.21
自己主張しない日本人の心にある「侘び」
筆者は若い時に世界中を歩いてまわった経験がある。その全てが日本と違う国であった。日本だった(植民地ではない)台湾や朝鮮や南太平洋の人たちだって全く違う国であった。中国も然り。世界中どこに行っても日本人と全く同じ精神を共有している国など存在しなかった。当然のことである。その中にあって、日本人の気質と似ていると思った民族がいくつかある。