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『タオと宇宙原理』
2021.07.04
老子とタオ〈33〉
以上『清静経』をもって東洋哲学の真髄に触れて頂いた。老子の作というも実際は『老子道徳経』や『易経』を底本とした後世の偽作と思われる。註釈は『宝巻経』として出された「太上老子清静科儀」等からの借用と思われる。周兆昌訳本を私流に手を加えて一般に分かりやすく簡易に紹介したつもりである。
ここで述べていることは、無極或いは太極という全体的根源的存在であり、循環還源の理法である。この理を体得した者が覚者と呼ばれるのだ。この古よりの哲学が現代物理学の理論とも一致している点を改めて理解して頂ければ幸甚である。より直観的に解説したのは物理的哲学的知識ではなく真に体得を望む者にとって、少しでも資助となればと思ってのことである。知識で道を究めんと欲しても、所詮は無理である。究極は体得以外になく、その点を強調しているといえよう。
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【註】この『清静経』が真に老子の作かどうかは疑わしく多分に偽作と思われるのだが、老子の真髄が述べられているという点ではその価値が下がるものではない。明らかに後半の「太上老君日」(第十六章消長品)以後と前半とは違う流れで著わされたものであり、後半部分は宗教的要素を明らかに持たせている。
前半部分においても最後の「可伝聖道」とは、どうも老子らしからぬ表現である。老子が積極的に伝道を促すとはピンとこないところだ。この辺は多分に道教の流れをくむ派によって造られたように思われる。もう一つ文として明らかに流れが飛躍しているところがある。
なんであれ、老子が説くタオの世界は無為の世界である。それは微かにして無限の深さと広がりを持つ概念だ。更には、実存を超克する形で肯定するという現実主義の姿でもある。それは無我なる空を説きながら八十歳まで生きた仏陀の実存とも重なってくる。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.29
老子とタオ〈32〉
老子『清浄経』第24章を紹介します。
【第二十四章 超 昇 品】
真常之道 悟者自得 得悟道者 常清静矣
この真常の道、真実にして無極なる本道は自らの力で得る他に術はない。兢兢として己が心を観、常に変わらざる不動の誠心こそが悟の道を見出すのである。深遠幽玄の道理を悟り徹す人だけが永遠に常清常静の域に至るのである。将にこれこそが真の不生不死の態である。修行者よ万事万物のいかなるものをも決して貪り求めてはならないのだ。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.23
老子とタオ〈31〉
老子『清浄経』第23章を紹介します。
【第二十三章 生 死 品】
便遭濁辱 流浪生死 常沉苦海 永失真道
人というのは実に愚かである。せっかくの生であるにも拘わらず、便(たやす)く濁辱に遭(あ)い心奪われて生死輪廻に流浪する。自己中心であるが故に常に苦海に沉(しず)み、永遠に真道を失なうことになる。これ以上の恐ろしき事実は他にない。世の成功を得る者も失なう者も共に汚濁の情に支配され、本来純真無垢の天性を穢(けが)す。得失の得をもってしても、再びと救われることはない。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.20
老子とタオ〈30〉
老子『清浄経』第22章を紹介します。
【第二十二章 煩 悩 品】 既生貪求 即是煩悩 煩悩妄想 憂苦身心 貪求は次に煩悩となって燃え続け、身も心も傷付けていく。しかし世人はこの理を看破することが出来ず、自らを正として何ら顧みることがない。しかし貪求は不満を生じさせ憤りや怨み、哀しみや不安となって苦悶するのである。その結果、妄想は更に昂じて我見なる屁理屈をもって真実と見なし、永遠なる苦海へと転落していくのである。(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.14
老子とタオ〈29〉
老子『清浄経』第21章を紹介します。
【第二十一章 貪 求 品】
既着万物 既生貪求
人というのは一度万物に執著しはじめると、それに牽かれて次から次と貪求(どんきゅう)を生ずるのである。理性では徳行の大事さを知りつつもそれ以上の欲求に支配され、寝食をも忘れるほどに万物に恋恋として離れることがない。実に哀れなるも、決してそれから脱却しようという気にはならないのが凡夫の性である。貪求は後生に次々と禍いを招くことになる。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.11
老子とタオ〈28〉
老子『清浄経』第20章を紹介します。
【第二十章 万 物 品】
既驚其神 即着万物
人に妄心あれば元神が驚かされ随次識神に牽引される。一旦識神が出現するとあらゆることに心を着すようになり、最早、その勢いを止めることは至難である。惑乱昏倒されし元神はその働きを内に秘め表に出ることを阻まれる。果たして、この元神をいかにして恢復(かいふく)させるかが焦眉の急である。この道こそが全てに先んじての一大事である。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.07
老子とタオ〈27〉
老子『清浄経』第19章を紹介します。
【第十九章 人 神 品】
既有妄心 即驚其神
修道者は、妄心を生ぜぬよう心しなければならない。妄心は元神を驚かしその作(はたら)きを滞らせ、心意は一気に物欲の囚となって恋着するのである。かくて恋々と妄執は続き、終(つい)にはその本(もと)を感ずることすら出来なくなる。修道とは元神を妄心の万殊へ流さないことであり、還源の理法によって一に帰する以外にない。これを聖というのである。
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※元神を妄心の万珠へ~ 心を事象悉くに対し妄りに散じないようにし、元神なる霊(たましい)の根本に意識を集中し続けること。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.06.04
老子とタオ〈26〉
老子『清浄経』第18章を紹介します。
【第十八章 妄 心 品】
衆生所以不得真道者 為有妄心
衆生が真の道を得ることが出来ないのは、将に妄心有るがためである。常に六欲にてこの世の刺激を受け妄りなる発想にその生き方を任せてしまっては、どこに道を見出すことが出来ようか。何をもって生の根幹となし何をその目的となすかを先ず定めなければならない。常にその心に妄りなきかを問い、天の理法に添って生きなければならない。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.30
老子とタオ〈25〉
老子『清浄経』第17章を紹介します。
【第十七章 道 徳 品】
上徳不徳 下徳執徳 執著之者 不明道徳
上徳の人は無心であり拘泥がないから自己の評価というものに何ら頓着しない。他人の反応を気にして生きることがない。下徳は常に物欲に執著し続けるため他の評判を気にし、周囲の顔に左右されてその止まる所を知らない。無為にして初めて道徳を解することが出来、有為にしては道徳の姿を見出すことすら出来ないのである。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.27
老子とタオ〈24〉
老子『清浄経』第16章を紹介します。
【第十六章 消 長 品】
太上老君曰 上士無争 下士好争
老子が曰われるには、上士なる大徳の人は聖人の心を持ち、渾然たる天理に基づいているため全ての現象を包擁し、俗塵に混わりてなお高らず他と争うことがない。しかし下士なる凡人はあらゆることに固執するが故に、その一いちに心が奪われ悪癖を生じて他と争いが絶えることがない。知識や出世に著する者は進んで競争相手を作り自ら争いを好むのである。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.24
老子とタオ〈23〉
老子『清浄経』第15章を紹介します。
【第十五章 聖 道 品】
為化衆生 名為得道 能悟之者 可伝聖道
衆生が修行をなすにその目標なくては定め難きが故に、敢えて得道と名づけ為すのである。しかし、真に行を完成させた者にとっては、得道などという形式が存在するわけではない。形式をもって無極に至ることは不可能であり、真の行者は竟に感じ動じて得道となすのである。この理が真に領せられる者だけが聖なる道を語ることが出来る。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.19
老子とタオ〈22〉
老子『清浄経』第14章を紹介します。
【第十四章 妙 有 品】
雖名得道 実無所得
得道・覚醒と雖も、これ無所得である。しかしまた無尽蔵でもある。何ら心の著する所がない。外象外形に纏(まと)われることなく、仮り世界から心を退いて、己が心奥に果徳を修めることに他ならない。内果が円明となれば、自然(じねん)と欲心は消失し、名利恩愛酒色財気或いは福禄寿の事々に心は奪われない。外に何も無くなれば内に無所得を持し理天に還(かえ)る。
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※無所得 何ものにもとらわれないこと。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.16
老子とタオ〈21〉
老子『清浄経』第13章を紹介します。
【第十三章 真 道 品】
如此清静 漸入真道 既入真道 名為得道
このように清静無為になれれば漸次正しい道に至ることが出来る。すでに真道・正法を得れば名づけて「得道」即ち悟を得るとなす。これ解脱である。真道は凡夫の小知恵や才能でその奥を理解できない。心で領し意で会得して初めて得られるものである。真道は広義的には人身も成し、男精女血の交合により精は鉛、血は汞(こう、水銀)となって男女の別を産む。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.12
老子とタオ〈20〉
老子『清浄経』第12章を紹介します。
【第十二章 真 常 品】
真常応物 真常得性 常応常静 常清静矣
修道の者に在って、涅槃境なる真常(良智)性が物事に会って自在に対処し、その本(もと)常に変わらざれば真の清静を得ている。事に応じて動じ変ずるも、事無ければ静として止(とど)まるを知る。真常とは道なる玄徳の顕われである。常清常静と雖も相対世界の如くに動性を否定するものではなく、形象をもって察し難き綿々たる空なる流れが週(めぐ)っているのである。
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※涅槃(ねはん) 迷いの火を消した状態。ニルヴァーナ。ニルヴァーナに入ること。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.09
老子とタオ〈19〉
老子『清浄経』第11章を紹介します。
【第十一章 虚 空 品】
観空亦空 空無所空 所空既無 無無亦無 無無既無 湛然常寂 寂無所寂 欲豈能生 欲既不生 即是真静
三心(過去現在未来心)を掃き四相(人我衆寿相)が除かれれば、内に心も形も物も存在しない。唯空のみ存在する。戯論・言説・世俗諦の空も言辞認識をもって得んとすれば再びと空じられてその終(とど)まる所がない。将に真空妙有の実相である。寂静も寂静に執われることなき真寂の域に至ればこれが真静である。
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※戯論(けろん) 形而上学的議論。無益な言論、無意味な話、それごと、たわむれ。
※世俗諦(せぞくたい) 一般的な真理。見定められない宇宙の原理がこの世に形となって現われたありのままの姿。
※真空妙有(しんくうみょうう) 真理ないし真如が一歳の妄想を離れて増すこともなければ減ることもない執着を離れた姿を真空と称し、常住不変であって、しかも現実を成立せしめる真実の有(実存)である点を妙有という。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.06
老子とタオ〈18〉
老子『清浄経』第10章を紹介します。
【第十章 虚 無 品】
能遣之者 内観其心 心無其心 外観其形 形無其形 遠観其物 物無其物 三者既悟 唯見於空
能く三毒を滅すれば、心を内観するに心に執われの心はなく、外に形を観るも形に着する心はない。大宇宙を観るに物質形象もないと悟り得れば唯、空のみを見る。心・形・物に一切執われない状態こそが本性の円明なる姿である。物外を超然として浮俗の仮形に繞われることはない。このように雑念執著を遣除した人だけが空なる真性を観ずることが出来るのである。
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※内観 観・観法・正観ともいう。内省によって心の内に真理を観察する仏教一般の修行法。自己そのものを見つめる修行。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.04.29
老子とタオ〈17〉
老子『清浄経』第9章を紹介します。
【第九章 気 質 品】
所以不能者 為心未澄 慾未遣也
三毒が滅しないのは未だ心が澄まず欲が遣ぜられていないからである。仏仙神聖へ至らんと発するならば、喜怒哀楽を去らねばならない。則ち喜びの情を化して元性となし、怒りの情を化して元情となし、哀しみの情を化して元精となし、楽しみの情を化して元神となし、欲の情を化して元気となすが肝要である。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.12.03
老子とタオ〈16〉
老子『清浄経』第8章の続きを紹介します。
【第八章 三 尸 品】(続き)
外相を外相として捉えて内相に入れることなくただその実相のみを心に止める。三毒とは三尸神(さんししん) であり玉枕関(ぎょくちんかん) 、夾脊関(きょうせきかん) 、尾閭関(びりょかん) に住し、順に上中下の焦善悪を管轄する。三関九竅を閉塞(へいそく)せし三尸九蟲(ちゅう)を滅し法輪を転ずる要がある。
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※三尸神(さんししん) 上尸(彭琚。道士の姿)、中尸(彭質。獣の姿)、下尸(彭矯。牛の頭をして人の足をもつ)の三つ。
※玉枕関(ぎょくちんかん) 後頭部に位置。
※夾脊関(きょうせきかん) 背中上部付近に位置。
※尾閭関(びりょかん) 尾骶骨付近に位置。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.30
老子とタオ〈15〉
老子『清浄経』第8章を紹介します。
【第八章 三 尸 品】
常能遣其慾 而心自静 澄其心 而神自清 自然六慾不生 三毒消滅
常に能(よ)くその欲を遣除(けんじょ)すれば心は静となりて澄み清らかである。色声香味触法の六欲も生ぜず、貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒も消滅する。
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※瞋恚(しんに) 怒り。自分の心に違(たが)うものを怒り恨むこと。
※愚痴(ぐち)愚かなこと。無知。真理に対する無知。心が暗くて一切の道理に通じる智慧に欠けたありさま。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.27
老子とタオ〈14〉
老子『清浄経』第7章を紹介します。
【第七章 六 賊 品】
人心好静 而慾牽之
人心は本来元神を根本に置くから静を好むが、それ以上に識神が作用し、眼耳鼻舌身意の六賊に支配されて六神は消耗される。これら五官と心意は人は生きる上で絶対必要であるが、欲に牽(ひ)かれると五官一意が潜在させる副作用が生じて心を乱し純潔を傷付ける。霊性は擾(みだ)れ、本性を恢復(かいふく)させることは很だ難しい。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.24
老子とタオ〈13〉
老子『清浄経』第6章を紹介します。
【第六章 人 心 品】
夫人神好清 而心擾之
人の神には元神と識神の二神がある。元神は本来無極の態をなして体内に宿り、虚空無礙(むげ) である。無所得故無尽蔵の造化をなすことが出来る。識神は人の出産時の「オギャー」という第一声によって空気と共に体内に入り、無極元神と一体化する。それ以後識神が元神の座を奪い七情六欲生じて人心は擾(みだ)され転々流浪することになる。識は邪心知識に通ず。
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※虚空無礙 虚・空ともに無の別称であり、虚にして形質がなく、空であり、その存在が他のものの礙(さまた)げにならないこと。
※七情 喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲または喜・怒・憂・思・悲・恐・驚。
※六欲 眼耳鼻舌身意の六つの感覚機官から生ずる様々な欲望。凡夫が異性に対して持つ六つの欲望。色欲・形貌欲・威儀姿態欲・語言音声欲・細滑欲・人相欲(『大智度論』)。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.21
老子とタオ〈12〉
【第五章 道 心 品】
人能常清静 天地悉皆帰
修道の人常に至誠息まず、二六時中万縁の事柄に一念も生じさせなければ、自然(じ ねん)に天地理法の悉くが己が本性の中に帰納する。この時、道心顕われて清静無一物の境となる。身中の天とは道心であり身中の地とは北海である。身中の天地は身外の天地陰陽に感じ、また身外の天地も身中の天地に応じ悉く帰納する。これ身中に太霊なる主宰者在るを意味す。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.18
老子とタオ〈11〉
老子『清浄経』第4章を紹介します。
【第四章 三 才 品】
清者濁之(し)源 動者静之基
この玄妙不可思議なる大道には清濁動静が含まれているが、軽清の天は重濁の地の源である。軽静の天は気天であり宗動の天である。これは一気に係(よ)って流行しているので動に属し地静の基となる。清濁動静は後天に属し、「道」こそが先天の無極に位置する。清が気天を生じ動じて濁静は象天(有形の世界)と変ず。気天は無極理天より生じたのである。
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※気天(きてん) 宇宙という意味の有気天と霊界を指す無気天から成る。
※宗動の天(そうどうのてん) 根本の動き。変易すること。これが原因となって次の動きが生じるということ。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.13
老子とタオ〈10〉
老子『清浄経』第2章を引き続き紹介します。
【第三章 太 極 品】
降本流末 而(じ)生万物
太極の本降りて陰陽は分枝し、一切の動静清濁の真理は全て本(もと)から末へ、上から下へと流れ、ついに万物を生ずるのである。陰の中に陽を有し、陽の中に陰を有し、陰陽相交感して次々と万象が営まれていくのである。無極一動して太極が生まれ、太極一動して万物の生育、運行、長養の本体として週流する。物人各に理を宿し、それは陰陽の間に在る。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.11
老子とタオ〈9〉
老子『清浄経』第3章を紹介します。
【第三章 太 極 品】
男清女濁 男動女静
陽は清にして男であり、陰は濁にして女である。陽は動であり陰は静である。男は乾道に秉(よ)って体を成したから清であり動である。女は坤道に秉(よ)って体を成したから濁であり静である。男は十六で清陽が足り、女は十四で濁陰が降る。清陽が足るとは淫念の根の生ずるを意味し、濁陰が降るとは雑念の本に支配されることを指す。仙道にあっては降龍伏虎なる術をもってこれに当たり根治する。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.09
老子とタオ〈8〉
老子『清浄経』第2章を引き続き紹介します。
陰陽の太気が作動せし清濁動静は、将に天地の母であり、人に在っては聖人と凡人の隔りとなって現われる。聖なるは濁陰の気を下降させ、清陽の気を上昇させることで、常に清静が得られるところに依る。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.07
老子とタオ〈7〉
老子『清浄経』第2章を引き続き紹介します。
【第二章 皇 極 品】
有清有濁 有動有静 天清地濁 天動地静
この「道」には清気がありまた濁気がある。清気は軽くして天となり濁気は重くして地と変ず。更に乾気が一動して天動となり、坤気が一静して地静となる。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.11.05
老子とタオ〈6〉
老子『清浄経』第2章を引き続き紹介します。
【第二章 皇 極 品】
吾不知其(き)名 強名曰道 夫道者
この形もなく姿も見えない玄妙不可思議なる存在の名前は、さすがの老子といえども知らない。そこで後世に謬(あやま)った解釈がなされてはならないとして、その理を最も蔵め不易の真理を包羅する定めの名を「道」と名づけたのである。
「道」は陰陽の太気を一なる無極の上(うち)に収めて、自らの内を綿々と巡り往(ゆ)く止(とど)まることなき存在である。森羅万象悉くを生育し、運行し、長養するところの五官では捉え難き実在である。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子のタオ 老子の世界)
2020.11.03
老子とタオ〈5〉
老子『清浄経』 第一章 「無 極 品」大意。
大道こそは天地人の三才を貫きし一本の理法であり、生・成・消・長の循環法則を包摂した存在である。太始にして太終、至高にして至深、至大にして至細、陰陽を燮理(しょうり) して変幻万化するその姿は、遠く人知の及ばざるところである。その根源は混沌としてなお井然(せいぜん)を保ち、玄機奥妙の限りが在(あ)る。遍(あまね)く天地の間を照らせし理の光は、恒星の輝きをもってその一面を垣間見せるも、その見えざる無為の世界において、燦然たる光は悉く宇宙に遍満する。大道こそは一切の元にして無極である。
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※燮理して…程よく整えて。妙合して。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子のタオ 老子の世界)
2020.11.01
老子とタオ〈4〉
【第一章 無 極 品】(続き)
大道無名 長養万物
大道(だいどう)には本来名前というものがないが、あらゆる万物を長養して余すところがない。
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※長養(ちょうよう)…育て養うこと。養育すること。また、自ら研鑽をつみ、向上につとめること。(『日本国語辞典』)
(『タオと宇宙原理』第七章 老子のタオ 老子の世界)
2020.10.30
老子とタオ〈3〉
老子『清浄経』より、引き続き紹介します。
【第一章 無 極 品】(続き)
大道無情 運行日月
大道には本来人間のような感情はないが、能(よ)く日月星辰を抱きし大宇宙を過不足なく運行することが出来る。
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※日月星辰…太陽と月と星
(『タオと宇宙原理』第七章 老子のタオ 老子の世界)
2020.10.28
老子とタオ〈2〉
大道(だいどう)とは、『日本国語大辞典』には「人のふみ行なうべき、正しい道。根本の道理。老荘思想でいう無為自然の道。」と書かれていますが、一般の理解はこのようなものです。この中では「無為自然の道」というのは正しいが、では無為自然とは何かが説明されていません。では、無為自然を調べると、「作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること。『無為』『自然』は『老子』に見られる語で、老子はことさらに知や欲をはたらかせずに、自然に生きることをよしとした。」と、書かれています。一見もっともらしく聞こえますが、老子の指摘はそのレベルに収まることはありません。確かに、大道と口にされる時には人の道に対してその指針を示す言葉として用いられることが多い。その意味では決して間違いだとは言えません。しかし、ここに「大道無形にして天地を生育し」と表現されたときの大道は、そのような意味でないことは誰しもが理解できるでしょう。
この場合の大道とはこの大宇宙を創造した力のことを意味しています。ではその特別な力とはなにかが問題となります。
つまりその理解は2つに大別されるからです。しかもそれは往々にして唯物論者との間で対立するものとなります。
その1つは人間の意思概念を超えた<純粋意志>なる宇宙創造主を指し、他は、根源的物質としての<純粋エネルギー>を指すために唯物論者は純粋エネルギーに一切を還元させ、それをもって全てとしてしまう事による対立が生じるのです。
大道とはその両者を指し、更には人の世にあっては、大道が持つ道徳律に従う生き方が説かれることになるのです。
それがいかなるものかは、これから少しずつ学んでもらうことにしましょう。
2020.10.26
老子とタオ〈1〉
今日から、『タオと宇宙原理』第七章「老子のタオ」に掲載した老子『清浄経』を紹介していきたい。
◆老子の世界
「無極」といえば老子をもって他に語るべき適任者はいない。もっとも、そのことばそのものは後世語られるようになったもので、ここには見出せないのであるが、その義が明確に述べられている。老子の経とされている『清静経(せいじょうきょう)』は次のように語っている。
【第一章 無 極 品】
老君曰(わつ) 大道無形 生育天地
老子が曰(い)われるには、大道には本来形象はないが、能(よ)く天を生じ、地を育成することが出来る。
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※無極(むきょく)…(1)(形動)果てのないこと。限りのないこと。また、そのさま。無窮。(2)中国、道家の語で、きわまりない世界の根源をいう。のち、宋学にとり入れられ、易の「太極」と結びつけられ、宇宙の生成に先立つ存在として、宋学の重要な形而上的概念となった。(小学館『日本国語大辞典』)
※老君(ろうくん)…老子のこと。(不詳)中国古代の思想家。姓は李、名は聃 (たん) 。春秋時代末期、周末の混乱を避けて隠遁を決意し、西方の関所を通過しようとしたところ、関所役人の尹喜(いんき) に請われて『老子道徳経』二巻を著わしたとされる。儒家の教説に反論して無為自然の道を説いた。
※大道(だいどう)…人のふみ行なうべき、正しい道。根本の道理。老荘思想でいう無為自然の道。(小学館『日本国語大辞典』)
(『タオと宇宙原理』第七章 老子のタオ 老子の世界)
2020.10.25
『タオと宇宙原理』〈62〉第一章 インド哲学との類似性
さて話を戻そう。「人間原理」説のディッケらは量子論の観測結果等のヒントから〈宇宙意志〉が自分を認識させるために人類を創造したと考えたのであるが、物理学者がどう繕おうとそれは現代版創世記に他ならない。彼のこの説は意外なことに多くの同業者の支持を得ることになる。さらに、一九七四年イギリス人のブランドン・カーターがより強力な論文を発表して以降、年を重ねるごとに支持者が増え続けているのである。
つまり、実は多くの物理学者は無神論者ではなかった、ということである。そして「宇宙は人間を創造するために設計されたのだ」と主張するに到り、ディッケの説を「弱い人間原理」、カーターの説を「強い人間原理」と呼ぶようになった。宇宙が今の状態へと導かれたのは必然であったとするものである。彼らが説く宇宙意識とは宇宙生命とも解釈できる。その場合には、東洋の「タオ」を意味することになる。この場合の概念は宇宙意識が放出された状態を指す。放出以前の純粋精神を指すのではない。この二者の違いは明瞭に理解される必要がある。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 インド哲学との類似性)
2020.10.24
『タオと宇宙原理』〈61〉第一章 インド哲学との類似性
さて、人間原理の主体は将にインド・ヴェーダの中心概念である純粋精神を指すものであった。もっとも、彼らは自分たちの祖としてのギリシャ哲学を起源というのかも知れない。すなわち、アリストテレスが命名したところの古代人が根源的物質と考えた「イーレム」である。後にビッグバン理論を提唱した人物の一人、ロシア人のジョージ・ガモフは先行したイエズス会の聖職者でベルギー人の天文学者ルメートル神父が一九三一年に提唱した冷たい宇宙のビッグバン理論に対し、超高温の理論を発表し、超高密度で超高温の塊の宇宙の形態をイーレムと名付けた。ルメートルはそれをヴェーダの表現そのままに「宇宙卵」と呼んでいる。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 インド哲学との類似性)
2020.10.23
『タオと宇宙原理』〈60〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆インド哲学との類似性
しかし、それはギリシャ哲学時代に遡(さかのぼ)ったようでもあった。だが現代物理学者たちは巧妙にそれを「神」とは呼ばない。物理学者としてのプライドがそれを許さないからである。そこで彼らは「宇宙意志」や「宇宙意識」などと呼ぶようになった、しかし、これはインドのヴェーダに出てくる純粋精神そのものの概念であった。実は、理論物理学者、中でも宇宙論や量子論をやる人たちが思考の参考書としてヴェーダやインド哲学や仏教や老荘を学んでいることは夙(つと)に知られている。因みに、近代の哲学者の大半も然りである。二十世紀最大の哲学者と称されるハイデガーの〈世界内存在〉や〈存在了解〉や〈超越〉またダーザイン(現存在)やダスマン(世人)などの思考には明らかに仏教哲学から影響を受けたと思われる「器世間(きせけん)」や「無我(むが)」や「凡夫(ぼんぷ)」や存在論などの概念が散見されるのである。二十一世紀に君臨するウィトゲンシュタインの有名な「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という哲学も、形而上学的質問に対する「無記(むき)」や「捨置(しゃち)」として無返答を貫いた仏陀の教えや「無我」を説く仏教の影響下にあるように筆者には思え、彼を巨人と称することには疑問を感ずる。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 インド哲学との類似性)
2020.10.22
『タオと宇宙原理』〈59〉第一章 量子仮説の大発見
シュレーディンガーの「波動関数」は量子力学の最重要な方程式となった。その量子の波の性質についてはその時はまだ解明されていなかったが、ニールス・ボーアらが「物質波の確率解釈」を世に発表し、量子の波を実体と捉えていたアインシュタインらから猛反発を受けることになった。
特に、観測者が見るまで量子はどこにも現われないとする「波束の収縮」について大論争になったことは有名である。「では君が見ていないときには月は存在していないとでも言いたいのかね!」 アインシュタインはコペンハーゲン解釈に対して苛立っていた。しかし、この論争はアインシュタインの敗北に終わった。「神はサイコロを振らない」。これもアインシュタインのボーアらに向けて発せられた有名な言葉である。そして、晩年のアインシュタインは統一場理論に固執しながらも完成させることが出来ずこの世を去った。プランクと並ぶ量子論の創始者の一人であり、相対性理論という画期的発想で物理学を牽引した天才アインシュタインにして理解できなかった量子の世界の不思議が「人間原理」の背景として措定(そてい)されている。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 量子仮説の大発見)
2020.10.21
『タオと宇宙原理』〈58〉第一章 量子仮説の大発見
シュレーディンガーの「波動関数」は量子力学の最重要な方程式となった。その量子の波の性質についてはその時はまだ解明されていなかったが、ニールス・ボーアらが「物質波の確率解釈」を世に発表し、量子の波を実体と捉えていたアインシュタインらから猛反発を受けることになった。
特に、観測者が見るまで量子はどこにも現われないとする「波束の収縮」について大論争になったことは有名である。「では君が見ていないときには月は存在していないとでも言いたいのかね!」 アインシュタインはコペンハーゲン解釈に対して苛立っていた。しかし、この論争はアインシュタインの敗北に終わった。「神はサイコロを振らない」。これもアインシュタインのボーアらに向けて発せられた有名な言葉である。そして、晩年のアインシュタインは統一場理論に固執しながらも完成させることが出来ずこの世を去った。プランクと並ぶ量子論の創始者の一人であり、相対性理論という画期的発想で物理学を牽引した天才アインシュタインにして理解できなかった量子の世界の不思議が「人間原理」の背景として措定(そてい)されている。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 量子仮説の大発見)
2020.10.20
『タオと宇宙原理』〈57〉第一章 量子仮説の大発見
なお、既述の通りプランクの発見から五年後、アインシュタインによって「量子仮説」に修正が加えられている。すなわち、エネルギーには量子はなく「光エネルギー」に「光量子(光子)」が存在するとし、光量子の集団が波の形で伝わるのだと発表した。これがかの有名な光は粒子であると同時に波である、という定理である。これを「光量子仮説」という。これによりアインシュタインはノーベル賞を授与されている。これも後にボーアから修正されることになる。しかし、プランクの計算式は完璧だった。
プランクやアインシュタインの量子論を更に進めたのがニールス・ボーアで、電子にも粒子の性質があることを発見した。一九一〇年代である。これはアインシュタインの光子は粒子であるという説からのヒントによるものであった。それに影響を受けたルイ・ド・ブロイが「物質粒子の量子論」を、更にそれに影響を受けたエルヴィン・シュレーディンガーが「波動力学」を完成させるに到っている。
2020.10.19
『タオと宇宙原理』〈56〉第一章 量子仮説の大発見
一九一三年、五十五歳の時、プランクはベルリン大学の学長に就任した。
就任するとすぐにアインシュタインを教授に迎え入れた。プランクは彼の才能を以前から高く評価していたからである。アインシュタインはプランクの助手を務めていたリーゼ・マイトナーに「あなたが羨ましい」と言った程にプランクの実力を認め尊敬していた。
2020.10.18
『タオと宇宙原理』〈55〉第一章 量子仮説の大発見
hνこれをプランクの「量子仮説」という。すなわち飛び飛びのエネルギーの間隔はhνであり、hνという「エネルギーの塊」を単位としてエネルギーの受け渡しが行なわれるとしたのである。この「エネルギーの塊」を「量子」と名付け、ここから量子力学が誕生することになった。量子力学とは飛び飛びのエネルギーの塊を研究する学問ということになる。これは光のエネルギーを粒子の集まりと捉えたもので物理学にとって時代を画す大発見であった。電気のもとである電子も同様の原理であることが後に発見され、現代エレクトロニクスを支える基盤となっている。コンピュータ等多くの場面でこの発見が用いられており、いまやこれなくして社会は成立しない。未来を築く量子コンピュータは将にプランクのこの大発見が礎となったのである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 量子仮説の大発見)
2020.10.17
『タオと宇宙原理』〈54〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆量子仮説の大発見
そして、プランクは自らが生み出した式のもつ意味を更に徹底的に考えぬき、一つの仮説を導き出したのである。それは光のエネルギーには最小単位が存在し、整数倍に不連続な飛び飛びの値を持つ、というものだった。
2020.10.16
『タオと宇宙原理』〈53〉第一章 マックス・プランクの功績
黒体とは光の色と温度の関係を調べる黒い箱である。この箱に熱を加えると内部で光が放射と吸収を繰り返す。この光のスペクトルを温度ごとに調べていけば、ある温度でどんな振動数の光がどれだけの強さで含まれているかがわかる。
プランクは、放射される光について説明の出来る公式を追い求めた。理論を考えては実験結果と照合し、合わなければ再び理論を組み立て直す。こうした試行錯誤を繰り返した結果、やがてプランクは一つの実験式に辿り着いた。 これがその実験式 E=hν である。
2020.10.15
『タオと宇宙原理』〈52〉第一章 量子論 マックス・プランクの功績
その頃、ドイツ帝国は工業を盛んにしようと必死だった。工業には鉄の生産が欠かせない。溶鉱炉で生産される鉄の品質は正確な温度管理によって左右される。しかし、鉄が溶けるような数千度の温度を計測する温度計など存在しない。そのため多くの職人は鉄が焼ける色を目で見て温度を調節していた。職人の経験に頼っていた温度管理だったが、加えられる熱と鉄の出す光の関係を科学的に把握することは時代の要請でもあった。
2020.10.14
『タオと宇宙原理』〈51〉第一章 量子論 マックス・プランクの功績
彼は、現代物理学、中でも量子力学を語る上では決して欠かせない人物である。学問上の業績だけではなく人格者としての生き方そのものが与えた影響も大きかった。アインシュタインの「相対性理論」もプランクの命名だったという。アインシュタインの光量子の発想もこのプランクのエネルギー量子の発想から導かれたものであった。
マックス・プランクは一八五八年四月二十三日 ドイツのキールという町で生まれた。祖父は神学者、父親は法学教授、母親は牧師の娘という家庭環境の中で育った。その一生は物理学者としての偉大な歴史とは別に、妻と二人の娘は病や出産で早世し、長男は第一次大戦に従軍して戦死、自慢の次男エルヴィンも第二次大戦中、ヒトラー暗殺を計画したとして処刑されている。こうして、プランクは全ての家族を失うことになった。更に、思い出の家と論文もその全てを戦争で失うという壮絶な悲しみを背負う運命にあった。気難しそうに見えるプランクの風貌は、この悲しみを抱えていた。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 量子論 マックス・プランクの功績)
2020.10.13
『タオと宇宙原理』〈50〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆量子論 マックス・プランクの功績
サイエンスチャンネル『偉人たちの夢』の及川わたる氏の解説を参考にするなら、プランクの画期的発見は次のようなものであった。
◆熱放射公式の構築◆
時代が十九世紀から二十世紀に移る直前の一九〇〇年の秋、ベルリン大学物理学教授のマックス・プランクは放射熱に関する理論的追求の果てに思いもしなかった〈量子〉の世界の扉を開くことになった。物は熱せられると光を出す。どんな温度の時、どんな種類の光がどんな状態で分布するのか。この関係を調べるのが熱放射の研究である。プランクはすでに何年もこの研究に取り組んでいた。しかし、「光のエネルギーは最小単位の整数倍の値しかとれず不連続なものとなってしまう。そんな途方もないことがあり得るのだろうか?」
2020.10.12
『タオと宇宙原理』〈49〉第一章 宇宙の「人間原理」とは何か
量子論は、一九〇〇年ドイツの物理学者マックス・プランクが「エネルギー量子仮説」を唱えたことに起因する。彼はそれまで信じられていたエネルギー伝導が連続的であるという考えを「不連続的」であると考え、原子のようにそれ以上分割できない最小単位として「エネルギー粒子」という画期的アイデアを開示したのである。そして、エネルギー粒子も原子のように一個二個という数え方が出来ることを示した。これが「量子仮説」というもので、ここから量子論がスタートすることになった。
2020.10.11
『タオと宇宙原理』〈48〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆宇宙の「人間原理」とは何か
初めてこの言葉を知ったとき、いったい物理学は何を言い出したのだろうと、いぶかしく思ったものだ。人文系の学問なら分かるがよりによって数式と実験で固められた物理学の世界で、人間の存在が宇宙を創った、という論の展開には唖然とさせられたものである。しかし、読めば読む程、科学者たちは本気でそう語っていることが分かり、更に驚いた。しかもその最初の発表は一九六一年であり、アメリカの物理学者ロバート・H・ディッケが書いた「宇宙の人間原理」の論文であった。
2020.10.10
『タオと宇宙原理』〈47〉第一章 刹那生滅
「あなた」も「私」も実は不確かな存在であるのだ。せめてアニメのコマのレベルでしか存在していないことに気付くことが出来れば、その人はかなり優秀な識を持っていることになる。と言った途端、識なるものも存在することはない、と空(くう)じられるところが仏教の凄みである。何であれ、かくの如く、仏教哲理は物理学を凌駕(りょうが)している。
この仏教哲学は将に現代物理学とまったく一致するものであり、宗教でありながらここまで極めてきた仏教の凄みを見せつけられる思いである。それ故に物理学に人間原理が出てきたくらいでは仏教哲学には未だ及ばない。これらについては六章にて「三世実有法体恒有」と題して、更に詳しく述べている。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 刹那生滅)
2020.10.09
『タオと宇宙原理』〈46〉第一章 刹那生滅
仏教は、この世を無常と捉えていて、一時たりとも永続するものではないと説くのである。我々の今である現在が錯覚的に「生」と認識され、次の刹那には完全な無となり消滅し、これを繰り返すことで、恰も永続しているかの如き感覚を我々は持つのである。迷いの世界であるこの世の法則である有為法(ういほう)が一刹那のみ今現在に出現し、即時に消滅して過去へと移り変化することを意味する。
2020.10.08
『タオと宇宙原理』〈45〉第一章 刹那生滅
さて、この未来相には、未来に閉じ込められて現在相に顕われないものもある。それらは因縁が未だ成就しないものである。また、涅槃に関わるものは作用しない法として未来相内に定住するものとなる。それが顕われるのは、人が解脱した時である。
刹那生滅とは存在に実体が無いことを意味している。以前、白金か何かの分子の生映像を見たことがあるが、それは部分部分が生滅していて、アメーバの様にふにゃふにゃと動き回っているかの様にも見えた。今でいう仮想フィールドである。その形を留めることがなく、個体とはまったく認識できないものであった。将にその様に我々の体もこの世界の全てが生じては消え、消えては生じるの変化を繰り返しながら存在しているのである。それは、第四章で述べている物理の法則と一致することが、現代において証明されている。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 刹那生滅)
2020.10.07
『タオと宇宙原理』〈44〉第一章 刹那生滅
相対性理論と同様に仏教の有部は、未来と現在と過去を等価と見るのである。
そこには、未来から過去あるいは過去から未来に向かった連続する時間の矢が見出されることになる。しかも、それらが等価の関わりということになれば、未来が現在に影響し、現在が過去に影響することが論理的に導かれることになる。通常は、過去の因が現在に果を生じさせ、現在の因が未来に果を生じさせるということになるのだが、三世が実有であるならば、それは相互依存の関係となり逆の因果関係も有り得ることになるのである。この事は、アインシュタインの相対性理論の中で語られていることでもある。仏教と最先端物理学の一致とは何とも驚くばかりである。
2020.10.06
『タオと宇宙原理』〈43〉第一章 刹那生滅
少しだけ解説をすると以下のようになる。仏教では、この世の原理法則のことを有為法(ういほう)という。つまり、迷いの世界を支配している原理ということになり、それらには全て無常の性質が有される。無常とは常住でないということであり、ここに述べる刹那生滅を意味することになる。
2020.10.05
『タオと宇宙原理』〈42〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆刹那生滅
仏教の唯識(ゆいしき)派(正しくは瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派)は名前の通り、唯(ただ)識のみが有ると説く。すなわち、この世界の事象は全て心が作り出した仮の姿であって実在せず、実在するのはただ心だけだとするものである。この世は存在していないと説くのである。ただし、これは西洋の唯心論と違い、唯識の識は最終的には空(くう)じられてその存在が否定される。ここが仏教の凄いところであり、一般に理解するのが甚だ難しい所でもある。瑜伽とは、いわゆるヨーガの本来的意味である。解脱を追求するという意味において巷で行なわれているものとは根本的に異質である。この唯識派は存在を「今現在」しか認めず、過去も未来も認めない。
2020.10.04
『タオと宇宙原理』〈41〉第一章 「空」―絶対性の否定
その意味で、人がニルヴァーナを理解することは、解脱の前段階の境に至らない限り不可能である。
その為には、自己のあらゆる執著(しゅうぢゃく) を捨て去らねばならない。完全に近い無執著の境地へと至った時に初めてニルヴァーナが感知できるようになるのだ。いくら科学者が頭脳活動をもってしてもこの世界だけは把握できない。原始宇宙、プラズマが光の直進を妨げたように、科学者の執著心なる煩悩が、意識をそれ以上の境地へと行かせないからである。最高の修行者でニルヴァーナをもし感じ取れる境地に近付いたとしても、そこに一縷(いちる)の概念なりが付随している限りにおいて空(くう)じられる対象となり、相対化され否定されるのである。
2020.10.03
『タオと宇宙原理』〈40〉第一章 「空」―絶対性の否定
空(くう)は「この世界」における究極の法(ダルマ)(原理)である。
その意味で、仏教が説く救いの境地「涅槃(ニルヴァーナ)」は、他宗教と比べ圧倒的に奇妙な概念である。ほとんどの宗教が説くところの天国を意味していないからである。浄土宗などで説かれる浄土や極楽の概念は、明らかに無知な信者向けに語られたものであって、仏陀が説いたニルヴァーナはそのようなものではない。それは非存在なるものであるのだ。それは一切の概念を受け付けない〝不可解な概念〟〝不可解な場〟なのである。それは後章で語る「無」に於けるエネルギーや「ゆらぎ」と関係していると筆者は解している。
2020.10.02
『タオと宇宙原理』〈39〉第一章 「空」―絶対性の否定
相対も自他のそれぞれに自性を認めることなので否定されるのである。自己の絶対性の謬(あやま)りと同時に他者の絶対性も同様に、それ以外を否定することになるので謬りとなり成り立たない。その意味ではキリスト教的神も存在しない。何故ならキリスト教の神は常に人間やサタンを相対的存在として位置付けるからである。もし絶対という概念で神を捉えようとするならば、この宇宙の一切を神としなくてはならない。すなわち、人もサタンも神の一部分であるという概念を形成させる必要がある。それは東洋における汎神論と一致する。その時には人格神的神の存在は否定されることになる。
2020.10.01
『タオと宇宙原理』〈38〉第一章 「空」―絶対性の否定
では、「それ」だけが唯一この世界に存在するならば絶対なのか、その通りである。では、そのようなものはこの世に存在するかと問えば、考える要もなく存在しない。この世は相対的世界だからである。だが、この言葉は本当だろうか? 相対世界なるものは本当に存在するのだろうか。
相対とは「私」と「彼」との存在関係を指すものである。一般に「彼」と「私」は相対的に存在していると言う。だが実はこの表現は論理学的には誤りであるのだ。相対なる世界などあり得ないからである。すなわち、相対とは「彼」と「私」とに存在という絶対性を付与した概念だからである。そう言われれば読者もお分かり頂けただろうが、つまり、相対という概念は絶対なる複数の存在を指すことであり、そこには明らかな矛盾が生じることになるのだ。
2020.09.30
『タオと宇宙原理』〈37〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
空と刹那生滅―
◆「空」―絶対性の否定
筆者は仏教の大学で印度仏教を学び卒論で「空(くう)」(個の存在否定)と「異蔭(いおん)」(連続する意識)とについて論じたのであるが、現在その内容は、最新宇宙論が語る事と一致するようになって喜ばしく感じている。仏教教義の根本哲学は「空」と「刹那(せつな)生滅(しょうめつ)」にある。
仏教が説く「空」とは存在する一切のものに個としての特性(自性)を認めず、その絶対性を否定するものである。それを「無自性(むじしょう)」という。固定的実体を認めず、全ては相依性と説く縁起の関係性の異称でもある。自我の実在を認めず、この世界を構成する一切の恒存性を否定する。諸々の事物はただ因縁によって生じたものであって、個別の実体が有るのではないとする。これを無我とも言う。無我と無自性は同義である。「自性」の意味するところは絶対性のことである。それ故もし自己に絶対性「自性」を認めるとそれ以外は存在しないことになる。何故なら絶対とは相対の存在を認めない概念だからである。すなわち、絶対は「一」を意味する。他が存在する限り「それ」を指して絶対(唯一無二)とは言わない。
では、「それ」だけが唯一この世界に存在するならば絶対なのか、その通りである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 「空」―絶対性の否定)
2020.09.29
『タオと宇宙原理』〈36〉第一章 古代人は幼稚という誤った観念
こうやって、人類は知恵を築いてきた。二千五百年以上にわたって幾何学は発展し、さらなる数学と物理定数が発見され、そこから宇宙物理学や量子力学といった自然科学が形成されるに至っている。その最先端の発見や理論はパラレルワールド(並行宇宙)やマルチバース(多次元宇宙)を生み出し、ついには「人間原理」なる宇宙意識を前提とした理論までもが展開し、もはやSF小説を読むよりも奇抜であり胸躍るものがある。今の若い人たちは本当に恵まれた時代に生まれていると思う。学問にはうってつけの環境の中で学問しないというのは罪であるほどだ。大いに優れた若者がこれから陸続として現われることを期待して已(や)まない。
それにしても、二千五百年前に仏陀が物理学の究極の定理を導き出し、更には知識としてだけではなく悟りという超越の世界を開示したことは驚異というほかない。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 古代人は幼稚という誤った観念)
2020.09.28
『タオと宇宙原理』〈35〉第一章 古代人は幼稚という誤った観念
現代人の中には、ある否定し難い観念がある。それは、古代人は幼稚で現代人は知的で優秀だという文明信仰である。確かに科学についてはその通りである。しかし、人間一個人対一個人として比較したときに、果たして古代人に勝り得るかと言えば、否である。ピタゴラスの幾何学の定理は学校で習わない限り誰も分からない。
人格に到ってはそれ以上の問題がある。聖書や論語はいまも読み継がれ現代人の精神の支柱となっている。つまりは現代人は人格において古代人以上ではないということを意味する。仏陀の空観は漸(ようや)く量子力学が追いついたところでしかない。科学でさえも一個人に負けているのである。これは驚くべき事実だ。かくの如く現代人の思い上がりは修正される必要がある。現代人は数千年の歴史に君臨する叡智に敬意を払うべきであり、少なくとも、もっと謙虚であるべきだ、と筆者は思う。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 古代自然哲学者の叡智)
2020.09.27
『タオと宇宙原理』〈34〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆古代人は幼稚という誤った観念
現代人に、自分で地球の大きさを測れるかと訊いて、すぐに答えられる人はほとんどいない。古代ギリシャにおいて、彼らのような科学者(自然哲学者)が自然を愛し研究し、数学を発達させていたことは素晴らしいことであった。彼らの探求心は純粋で、今の科学者たちとは少しだけ違いがあったように思う。それは、彼らには自然に対する単なる観察や知的探求心だけでなく、深い洞察の眼差しが向けられていたように思えることである。それは自然に対する畏敬の念と言い替える事が出来るであろう。広い意味での宗教観であった。すなわち科学者の目と宗教者の目の両方を持ち合わせていたということであり、思考において何らの矛盾がなく、二者の両立がなされていたということである。この辺りは現在のほとんどの科学者からはイメージされにくく、欠落した部分である。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 古代人は幼稚という誤った観念)
2020.09.26
『タオと宇宙原理』〈33〉第一章 世界で初めて地球の大きさを測ったエラトステネス
(昨日の続きより)
これは、地球が丸いことを同時に意味していたのだが、ギリシャ人はそのことをすでに紀元前六世紀頃から知っておりエラトステネスはそれを実感として確認することになった。
そこで地球を球として、七・二で円周の三六〇度を割ると五〇となる。つまり地球全周の三六〇分の七・二(五〇分の一)の距離が五〇〇〇スタジア=九二五㎞という事になる。かくしてエラトステネスは地球一周の距離を五〇〇〇スタジア(九二五㎞)×五〇=二五〇〇〇〇スタジア(四六二五〇㎞)と計算したのである。 更に、ここから二五〇〇〇〇スタジア(四六二五〇㎞)÷π(三・一四)=七九六一八スタジア(一四七三〇㎞)と地球の直径を出し、半径を三九八〇九スタジア(七三六五㎞)と割り出した。実際の地球の全周はおよそ四万㎞であることからこの導き出された数字の正確さ(一五・六%の誤差)には驚かされる。
この誤差もシエネまでの距離を測定した専門の歩行者の技量の差なのであって、計算式そのものは完璧だった。この時代にこれらの計算式がすでに発見されていたことは驚嘆に値する。これが、人類史に残る地球の大きさを最初に計算して出したエラトステネスの偉業であった。今から見れば、実に単純な計算ではあるが、当時としては画期的なことであった。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 世界で初めて地球の大きさを測ったエラトステネス)
2020.09.25
『タオと宇宙原理』〈32〉第一章 世界で初めて地球の大きさを測ったエラトステネス
彼(エラトステネス)は素数算定法の「エラトステネスの篩(ふるい)」を考え出した天才だった。更に地理学と地図作成に数学を使用した最初の科学者で『地球の測定について』の著書の中で地球の円周を計算して当時としてはきわめて正確な距離を導き出した偉大な人物である。
その計測法は次のようなものである。
2020.09.24
『タオと宇宙原理』〈31〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
9月22日に刊行した最新刊『タオと宇宙原理』の第一章を引き続きご紹介します。
◆世界で初めて地球の大きさを測ったエラトステネス
さて、少し筆者の幼い時の体験を述べよう。古代ギリシャ人の偉大さについての話である。
それは小学生の時だった。テレビ番組で古代エジプトに地球の大きさを測った人がいて、その人は井戸に出来た影を見て地球の大きさを測定した、と説明していた。その時の筆者にはその意味するところがよく理解できず、翌日学校で担任にそのことを話したのだが、そんな馬鹿な、お前の聞き間違いだろうと言われて、いたくがっかりしたものだった。今どきと違いネットでお気軽にちょっと検索なんて時代ではなかった。田舎だったので図書館なんてしゃれたものもなく、自分でそれ以上学ぶことは不可能だった。あの時その理科専攻の担任が誠実に対応してくれていたら、数学の虜(とりこ)になっていたに違いない。さらなる学びが出来ていただろうに誠に残念であった。筆者には失われた時となったあの「時」が生きていれば今頃は宇宙物理学などをやっていたかも知れない。
2020.09.23
『タオと宇宙原理』〈30〉第一章 電磁気力の驚異
物理学的原則からは生も死もエネルギー変換の原則から等価になるのだが、何故か死が生ずることに物理学者が悩んでいると言うと考えが及ばない人は唖然とするだろう。生命も原子で出来ており、原子は陽子と中性子と電子とで構成されているが、それらも実は個として実際に存在しているものではないことが知られている。それはすなわち粒子であり波であり、磁場である。その粒子も個体として存在しているわけではない。これが量子の世界である。それはつまり、原子で構成されている人間もこの世界も実は存在していない、ということになるのである。だが、現にここにあなたは存在する。紛れもない事実だ!
ましてや意志の問題となるともっと複雑であり、唯物論者が考えるほど世界はそう単純なものではない。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 電磁気力の驚異)
2020.09.22
『タオと宇宙原理』〈29〉第一章 電磁気力の驚異
あなたが常識と思っていることなど、この事実に比べると実に大したことではないとお分かり頂けたであろう。そういう訳であなたも私も電子の反発力(斥力(せきりょく))で床に立ち椅子に座っていられるのである。ベッドが硬いの柔らかいのと文句を言うのもこの電子の斥力の違いでしかない。握手の感触も実は錯覚で、全ては電磁気力の反発の力でしかなかったのである。ということは、もしこの電磁気力が有されていなかったらどうなるだろう? なんと床を通り抜けてしまうことになるのだ。問題は通り抜けた先であなたの肉体を再構成できるかということである。
2020.09.21
『タオと宇宙原理』〈28〉第一章 電磁気力の驚異
この原子(アトム)の存在を証明したのは当時二十六歳のアルベルト・アインシュタインであった。彼は水面上の微粒花粉の動きに独特なブラウン運動があることを知ると、その運動はその気体や液体の分子が微粒子の花粉にぶつかるために生じることに気付き数学的解析の結果、そこに一瞬のゆらぎが生じているとして計算し、分子の大きさを割り出したのである。そして遂に原子の大きさをつきとめ、原子が実際に存在することを明らかとしたのである。
さて、原子は陽子がプラス(+)の電荷を帯びていて電子がマイナス(-)の電荷を帯びているため(+)(-)で引き合って離れない構造になっているのである。四章で説明することになるので詳しくは述べないが、そこでは両者に「電磁気力」という力が働いている。あらゆる物質が原子で出来ている以上、全ての物体にこの「電磁気力(電磁力)」が働いているということになる。因みに核子間には「強い力」と呼ばれる相互作用が働き結合している。
2020.09.20
『タオと宇宙原理』〈27〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆電磁気力の驚異
「何故あなたは床に立っていられるのか」と問われたら、読者はどうお答え頂けるだろうか。脚腰がしっかりしてるから立っていられるに決まってるだろ!という返事が飛んできそうだが、実に、これには驚くべき事実がある。
現代人ならあらゆる物質は原子で出来ていることを知っている。目に見える一切のものも見えない一切のものも、そしてこの筆者もあなたも、原子で出来ている。つまりはランチでてんぷらを食べたのはあなたではなく原子だったということになる。という話の流れになれば、その場所に立っているのは原子ということになる! そう、そこに立っているのは原子の集積であるあなたにすぎない。そのあなたが原子の作用としてそこに立っていられるのである。もし原子の、ある作用が働いていなかったなら、あなたはその地面や床の下を通り抜けてしまう、と言ったら信じてもらえるだろうか。別にオカルト話をしているわけではない。物理学を知る人なら答えは簡単だが知らないと絶対に分からない。
2020.09.19
『タオと宇宙原理』〈26〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆老子の逆説
物理学も宗教も所詮は無知であることを自覚する必要がある。筆者も知っていること以外は何も知らない。何も知らない事がそのほぼ一〇〇%だ。
東洋最高の哲人の老子は言う。
衆人は煕煕(き)として楽しく笑い、ごちそうを食べ春の高台で人生を謳歌している。しかし我(われ)独(ひと)り泊兮(はっけい)として身じろぎもせず笑いもせず孩(がい)なる赤子のようだ。ふわふわとしてどこにも帰る所もない。衆人は皆有り余るほど持っているのに、我は独り遺(うしな)えるが如くなにも持っていない。我は愚人の心なり。まさに我は沌沌兮(とんとんけい)としてにぶいものだ。俗人は輝いているのに我独り昏(くら)い。俗人は察察として活発なのに我独り悶悶(もんもん)としている。衆人は皆取り得が有るのに我独り頑(かたく)なで鄙(いなか)者のようだ。なんの取り得もない。だが我は独り他の人と異なるところがある。それは衆人がかえりみない母なる道(タオ)の乳房(ちぶさ)に養われそれを貴(とうと)いとすることである。
2020.09.18
『タオと宇宙原理』〈25〉第一章 日本の知識人の異常性
特にマスコミ人に代表される日本の知識人のあり方は異常であり、余りに無思考というほかない。変な言い方だが、日本においては「そもそも憲法二十条の思想信条の自由に抵触する!」のだ。にも拘わらず、知識人を自認する人たちは、この憲法を犯しているという無知を自覚することなく、宗教的なる思考を否定するのであるから滑稽である。面白いのは、第二項と第三項は声高に叫ぶのに、第一項は無視することである。
ではなぜ一項においても国からの特権を受けた特定団体の否定に言及しているのかと言えば、そもそもこの条項がアメリカ軍(GHQ)による国家神道へ対する否定を指していたからである。国家神道を利用して再びと我が国が軍事大国化しないことを明文化したものである。その結果、相対的に個人の信教の自由の権利の文字数が少なくなってしまっただけで、決してこの権利の保障が小さい意味なのではなく、実に重大な権利として憲法で規定されていることを国民は再認識する必要がある。
2020.09.17
『タオと宇宙原理』〈24〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆日本の知識人の異常性
科学はなくてはならないものであり、人類の未来を決定付けるものである。しかし、ケルヴィンの例でもよく分かるように、科学は絶対ではない。あくまでその時の知見にすぎない。それも間違いかも知れないし、正しかったとしてもそれだけのことで、それ以外は何も知らない「無知である」。謙虚を科学者は忘れてはならない。全智の中の一%も〇・一%も〇・〇〇〇…だってまだ知らないということを自覚し、謙虚であるべきだ。寛容でなければ、中世のように正しい知見を何百年も見過ごすことになるかも知れないからだ。
にも拘わらず、中世における宗教弾圧よろしく、現代に於いては学者という権威が世の中を支配し自分たちの価値基準に反する者を糾弾している様(さま)には、そら恐ろしいものを感じるのである。もちろん一部の人たちであって、全ての学者がそうだと言っているわけではない。しかし、一部でも彼らの発言には権威が与えられており何とも危険な思想である。我が国の恐ろしさは、それが市民レベルにまで浸透していることである。
2020.09.16
『タオと宇宙原理』〈23〉第一章 ダーウィンの直観とケルヴィンの数式
この例からも分かるように、優れた直観というものがある。物理学の大発見も、そのほとんど全てがこの直観によるものであることを忘れてはならない。そしてまた、このケルヴィンのように発展途上の科学理論に立脚し、それを絶対とすることの誤りを科学者は学ぶ必要がある。そしてまた、権威者の理論を訂正したのも科学であったことも忘れてはならない。その意味で科学は偉大なのである。しかし科学者は、ケルヴィンの轍(てつ)を踏んではならないのだ。
2020.09.15
『タオと宇宙原理』〈22〉第一章 ダーウィンの直観とケルヴィンの数式
ところが、これに対し地球物理学の立場から激しく反論してきたのがケルヴィンであった。彼は地球の中心部から微量の熱が放射されていることを根拠に、地球は誕生時点の溶岩状から徐々に熱が放射冷却されて現代に到っており、その冷却に要する時間から割り出して地球の年齢を四千万年内とし、ダーウィンの非科学的な態度に対し、一八七三年には「我々はダーウィンの一語一句について、その無益さ、ばからしさを指摘できる」と述べている。その後、地球の年齢を更に短く二千四百万年と発表した。この態度にダーウィンは腹わたが煮えくり返り、友人のアルフレッド・ウォーレスに「不愉快極まりない」と語っている。
2020.09.14
『タオと宇宙原理』〈21〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆ダーウィンの直観とケルヴィンの数式
直観と科学的計算のどちらが正しいかの逸話を紹介しよう。進化論のダーウィンと物理学者ケルヴィンが対立した地球の年齢問題でのことである。ケルヴィンより十五歳年上のダーウィンはビーグル号で世界を旅し、ガラパゴス諸島において鳥のガラパゴスフィンチやゾウガメが島ごとにその形を変えていることに着目し、その調査結果から進化論を提唱した。現在もなお、その基本概念を基に生物学が研究されていることは我々の知るところである。
2020.09.13
『タオと宇宙原理』〈20〉第一章 思考優位型の傾向と過(あやま)ち
彼らのような思考優位型の特徴として他者との協調性の欠如が挙げられる。また、情報を自分一人のものとして他者へ譲り渡すことを頑なに拒む無意識が内在する。それは、自己保全の為の自己同一を強化する手段として用いられる。だが、本人がそのことに気付いてそうしているわけではない。彼らはそうするしか自己を保持することが出来ないのである。その結果、自己過信となり成功者タイプは一層の傲慢性を発揮し一切の価値を単なる知識に依存し、それをもって全てとして物事を判断して、自己の見解に固執しそれに反する者を糾弾する。決して冷静に論証するのではなく、激烈に感情的となり反対の為の反対に陥るのである。
2020.09.12
『タオと宇宙原理』〈19〉第一章 思考優位型の攻撃性
それともう一つ重要な観点がある。この種の思考優位型の人に共通するものとして他者の心が理解できないというのがある。それ故、他者の言動や感情表現を単純な一つ一つの文字に置き換え、数値化することで他者を理解できると考えるのであるが、明らかにそこには実態との乖離(かいり)が生じることは否めない。彼らには他者を直截(ちょくさい)に感受し理解する能力が著しく劣っている傾向にある。残念ながらそのことを彼ら自身は理解していない。それをカバーするために、彼らは言語化と数値化を試みる。ところが、結果的にそれは研究成果として評価されることとなり遂に学問として成立することになる。何とも皮肉だが、かくして彼らは権威を身に付けることが出来るのであるが、だが、決して原点の感受性の劣性が改善したことを意味するのではないし、数値によって保証されたのでもない。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 思考優位型の攻撃性)
2020.09.11
『タオと宇宙原理』〈18〉第一章 思考優位型の攻撃性
その結果、自己過信となり成功者タイプは一層の傲慢性を発揮し一切の価値を単なる知識に依存し、それをもって全てとして物事を判断して、自己の見解に固執しそれに反する者を糾弾する。決して冷静に論証するのではなく、激烈に感情的となり反対の為の反対に陥るのである。
それは、直観的に理解する能力に於いて劣っていることを知られないためでもある。こう述べるとそもそも直観なるものが信用できないとの反論がある。その通りである。物理学者の仮説同様にその大半は誤りである。しかし、最後の正しい解もこの直観が導くことは誰もが認めるところだ。また戦地などの死地に於いて、日頃から直観に優れた決断力のある指揮官が、理詰めだけで考えている指令官よりもよい結果、すなわち部下を救い出した例の方を多く耳にするが如きである。歴史の英雄とは実にこの直観力に優れた者であった。この思考優位型人間の弱点を認識した上で、このことは考える必要がある。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 思考優位型の攻撃性)
2020.09.10
『タオと宇宙原理』〈17〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆思考優位型の攻撃性
それともう一つ重要な観点がある。この種の思考優位型の人に共通するものとして他者の心が理解できないというのがある。それ故、他者の言動や感情表現を単純な一つ一つの文字に置き換え、数値化することで他者を理解できると考えるのであるが、明らかにそこには実態との乖離(かいり)が生じることは否めない。彼らには他者を直截(ちょくさい)に感受し理解する能力が著しく劣っている傾向にある。残念ながらそのことを彼ら自身は理解していない。それをカバーするために、彼らは言語化と数値化を試みる。ところが、結果的にそれは研究成果として評価されることとなり遂に学問として成立することになる。何とも皮肉だが、かくして彼らは権威を身に付けることが出来るのであるが、だが、決して原点の感受性の劣性が改善したことを意味するのではないし、数値によって保証されたのでもない。
彼らのような思考優位型の特徴として他者との協調性の欠如が挙げられる。また、情報を自分一人のものとして他者へ譲り渡すことを頑なに拒む無意識が内在する。それは、自己保全の為の自己同一を強化する手段として用いられる。だが、本人がそのことに気付いてそうしているわけではない。彼らはそうするしか自己を保持することが出来ないのである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 思考優位型の攻撃性)
2020.09.09
『タオと宇宙原理』〈16〉第一章 思考優位型の傾向と過(あやま)ち
また、「神を信じる者は心が弱くその拠り所として信仰するのだ」ということがまことしやかに語られるのであるが、これらの思考も余りに短絡である。そもそも宗教哲学的にはそのような弱い心を信仰とは呼ばないからである。信仰とは強い心を有さない者には持ち得ない心だ。
残虐なローマ皇帝下コロッセオにおいて、生きたままライオンの餌食にされたクリスチャンたちの勇気をこの思考優位型の唯物論者たちは持ち得ない。彼らは生き死にの〈言語体験=明確な自覚的思惟(しゆい)〉を経験してこなかったがために、時に、その「恐れ」から逃れるための思考の罠(わな)に陥り、この偏狭な価値観へと短絡してしまった者のように筆者の眼には映る。それは将にハイデガーが名付けたところの愚者ダスマン(世人)でしかない。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 思考優位型の傾向と過(あやま)ち)
2020.09.08
『タオと宇宙原理』〈15〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆思考優位型の傾向と過(あやま)ち
筆者が説く宗教観は仏陀が説くところのものであり、それは仏教中興の祖である龍樹が説く空観(くうがん) であり、同時に慈悲の論理である。それは、世間で知られているところの宗教観とはまったく異質の物理学と共通する哲理(教義)である。
2020.09.07
『タオと宇宙原理』〈14〉第一章 科学者の傲慢
改めてドーキンスらの本を読み直せば、彼らが語ることは現在のイスラム、キリスト、ユダヤ教徒に対する批判であるということであって、もしかすると仏教は入っていないのかも知れない。それなら筆者が彼らを批判する筋合いはなくなるのだが、残念ながらそうではなさそうである。彼らは正真正銘の機械論的唯物論者であるということである。
何より、懸念することは、彼らの存在感が大きく、権威者の意見を分析することなく盲信する日本人の特性に対してである。これ以降、日本人がますます唯物主義となり心を見失い、「欲」だけを支柱として生きる価値観に陥っていくことを強く懸念しているのである。
2020.09.06
『タオと宇宙原理』〈13〉第一章 科学者の傲慢
ただし、彼らの批判的概念としての「神秘主義者」という言葉はいただけない。東洋哲学の最高峰に位置する老子の思想は、将に神秘主義の名をほしいままにしているからである。仏陀と並ぶこの最高の叡智を侮辱するかの如き表現は、東洋人の我々は見過ごすわけにはいかない。
また、人智を越えた神秘性というのは、我々の感性の中に明らかに出現するからである。鈍感な思考優位型の人たちには感じ得ないことだろうが、芸術家を中心に、その種の人たちの精神(魂)の奥に垣間見え心惹きつけられる神秘性を、多くの人は感じ取るからだ。彼らが批判する神秘主義者とは、要するにいかがわしい嘘の神秘を売り物にした権威主義者であり、明らかな詐欺師でしかないはずだ。だが、しかし、そうではない知性を有する純粋な精神までをも、彼らは同列に批判の対象としてしまっている。つまり彼らの問題は、この種の幼稚な宗教的なるものを以て全宗教の否定に陥っている点である。彼らとは真逆に立脚する物理学者のアインシュタインやマックス・プランクらが言うように、心を癒やす信仰の世界があることは美しいということを否定できないのではないかということである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 科学者の傲慢)
2020.09.05
『タオと宇宙原理』〈12〉第一章 ◆科学者の傲慢
そんな中、最近夙(つと)に気になり始めたのが科学者たちの傲慢と言っては言い過ぎかも知れないが、彼らの一般人への見下しである。彼らの知識は素晴らしいと思う。私のような無学にとって知性は憧れのものだ。数学者の数式は美に彩られているらしいが残念ながらそれを理解するだけの知識が我々庶民には欠落している。決して感性が欠落しているわけではない。単に知識が欠落しているのだ。ただ、彼らの言いたいことは理解できる。この数学者たちに特段嫌味を感じることはないのだが、影響力があるという意味で最近の一部の生物学者や物理学者や脳生理学者たちの辛辣なことばには、少々うんざりするものがある。
2020.09.04
『タオと宇宙原理』〈11〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆科学者の傲慢
筆者にとって理想的な人間像は昔ながらの百姓である。百姓は暦を観ながら天候と相談し太陽と共に寝起きし、わが子のように作物を育て、厳しい環境の中で自分に打ち克ちながら、大した愚痴も言わず人生を全うする。そんな百姓なんかいまどき居るわけないだろ!と言われそうだが、そう信じている。そのような人生にいまも憧れてはいるが、いつの間にか都会生活に慣れ、使いものにならない心身になった。たぶん大半の人の人生は気付いた時には勉強だけの味気ない受験生を演じていて、その後は都会に住んで生活に追われる人生へと転じていく。これが都市に住む大半の日本人なのではないだろうか。田舎で心豊かに生きている人や自分のやりたい事を手に入れた人は恵まれている。いまどきはスポーツなどに目覚める人も多く、大いに結構な話だ。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 科学者の傲慢)
2020.09.03
『タオと宇宙原理』〈10〉第一章 ◆「信仰」の否定と「分別」という誤り
しかし、ここで問題になるのが、彼らは単に信仰の対象を形而上から形而下に変更しただけにすぎなかったということであった。彼らがやるべきことは、あらゆる信仰を捨てることだったにも拘わらず、彼らは新たな神の科学原理信仰へと移っただけであった。これは本質的にまったく何も変わっていないことなのである。彼らは前の分別から新たな分別という、愚かから別の愚かへ転じたにすぎなかったのである。
2020.09.02
『タオと宇宙原理』〈9〉第一章 ◆「信仰」の否定と「分別」という誤り
しかし、物理学は新たな局面を提示し、いままで人類が信仰してきた「神」の概念の修正を迫ってきたのである。特にキリスト教に於いては人間イエスを神と概念化したことから、他の宗教とにおける絶対性にひずみが生じていた。欧米の科学者たちは、この点に於いて特に反キリスト教の立場に立ったということでもあった。その強力な呪縛からの解放が、哲学者のニーチェやハイデガーあるいはサルトルや、ウィトゲンシュタインらによって唱えられ、宗教からの自由こそが人間存在(実存)の肯定となり、物理学者の自己同一へと向かったのだと思われるのである
2020.09.01
『タオと宇宙原理』〈8〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
◆「信仰」の否定と「分別」という誤り
この神観が、物理学の発展によりそのリアリティを失い、知的を自認する者たちを中心に自然科学者、生理学者、生物学者たちが〈依存〉として受け止めた神観からの脱出を試み、彼らは神信仰を捨て唯物信仰へと転換したのである。このような物事に執著(しゅうぢゃく)して判断していく思考を仏教では「分別(ふんべつ)」と呼んで、煩悩の最たるものと教えている。凡夫の愚行として分類するのであるが、そのようなことを知る由もない知性を標榜する者たちは、新たな唯物信仰へと移り、神への信仰を捨てたのであった。その結果、それまで宗教によって保たれていた道徳や倫理観が崩壊し、支配や権力やカネが優位の社会を形成し始め、敗者は劣者と見られるようになった。その最たる者が歴史上の暴君であり、ヒトラーであり、ダーウィニズムであり、現在のアメリカ文明であるだろう。それ以上なのがいまや中国文明である。愚かという意味では現在の日本も同類である。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 「信仰」の否定と「分別」という誤り)
2020.08.31
『タオと宇宙原理』〈7〉第一章 ◆意識とは何か
人類が集団を形成するようになって以降、人々は恐怖心を背景として「神」なる神秘力を恐れまた期待するようになった。それは、一人の霊感者の出現によって始まり、その強い呪師の意志が人々を束ね、勇気を与え、集団に平安を与えてきた。時に人供(ひとく)という恐ろしい風習までをも作り出し、犠牲という形式を用いて自分たちの行為の純粋性を示して、怒る神の許しを得ようとしたのである。このように神とは怖い存在であった。呪師の強い精神は更に人々の心を捉え、心正しく生きることを強調し、そうでない者に罰が与えられることを説いた。そこには、その呪師の知的能力の差により集団の文明的進化に大きな隔たりを作り出していくことになる。優れた呪師が出現した所には、それまでの怖い神が同時に慈愛の神として語られるようになり、それは遂に宗教としての形を成すところまで発展する。そこからは、より哲学的側面としての教義が形成され、他教との競合の後、勝ち残った集団、教えが現代まで続いている。
それらの代表が現代に於いてはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒教、神道等である。それらに共通することは、普遍的善悪が語られていることであり、それらを統(す)べる絶対者の存在である。厳密には仏教だけは異なるが、大衆仏教に於いてはこの範疇に入る。つまりは、そこには(相対的)絶対者としての神的概念が存在するのである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)
2020.08.30
『タオと宇宙原理』〈6〉第一章 ◆意識とは何か
しかし、いまや一般庶民に到るまでもが「心」を失い神棚や仏壇に手を合わすことを忘れてしまっている。このままでは、社会はますます険悪化していくであろうことが、容易に想像されるのである。更には、宗教観への偏見を抱くようになり、何の思考もなすことなく「神なんか居るわけないだろ! ばぁか!」といった短絡へと陥ったのである。考え尽くした末に神はいないと結論付けたのならそれはそれで結構なのだが、一度たりとも思考することなく「ばぁか!」では余りに知性が欠落しているとしか言えない。それは一度も思考することなく「わたし神様信じてる!」という女の子や、権力・カネ信仰に走る愚者の無知とどこも変わらない。
2020.08.29
『タオと宇宙原理』〈5〉第一章 ◆意識とは何か
日本では、大東亜戦争(第二次世界大戦)の敗戦を機に、それまでの家族制度が崩壊して核家族化が浸透し、さらなる民族否定の義務教育が追い打ちを掛ける中で、唯物主義も同時並行的に社会主義者の教師たちにより敷衍(ふえん)される事となった。その結果は、以前はどの家も鍵を閉めなくても安全だった日本社会が、いまや鍵を閉めても破壊され、道行く人が暴行されるのが普通の社会となり下がった。それでも、欧米他の先進国の中で一番安全であることに変わりはないことが、また驚かされることではある。
2020.08.28
『タオと宇宙原理』〈4〉第一章 ◆意識とは何か
ギリシャ哲学に代表される西洋哲学に於いても、哲学のスタートは「神」の理解からであった。当時の知的人物らが、庶民が考えつくこともない理屈を考え、神の存在の有無を論じ、より優れた者は自然哲学を学ぶ者となった。ピタゴラスに代表される偉大な哲学者は、現代人の大半が理解できない数学(幾何学)の道を切り開き、同時に自然と人間の意識とを神の創造物として分析した。西洋知識人の多くはいまだにプラトンを始め、この古代の哲学者たちへの敬意を忘れない。この欧米人の感性を日本人の多くが疾(とう)に失ってしまっていることは、日本の未来に暗雲を棚引かせているように思えてならない。
ユダヤに於いても、五千年も昔からの歴史を重んじ、そこに現われる信仰厚い偉人たちに敬意を払っている。偉大な哲学の歴史を持つインドに於いても同様である。中国の聖人たちは、いまも我々の精神の支柱として君臨している。にも拘わらず、近年の唯物論者の急増には残念ながら抗しきれていないようだ。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)
2020.08.27
『タオと宇宙原理』〈3〉第一章 ◆意識とは何か
哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは、意識について、物理学で基本構成単位として用いる空間や時間や質量などと同様の自然を構成する基本要素のひとつと仮定している。この考えは、古代ギリシャの時代からあるもので、むしろそれが当たり前だったのだが、哲学者にして数学者だったデカルトの物心二元論が登場して以降、科学が発達するに伴い、いつの間にか唯物主義に席捲された学者の大半は意識も単なる原子の寄せ集めと考えるようになり、意識の深淵について一切触れようとしなくなった。哲学を差し措(お)いて意識を単なる偶然の産物以上のものではないとしてしまったのだ。その結果、それまで人類が築いてきた一切の価値を否定し、ニヒリズムへと陥ってしまったのである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)
2020.08.26
『タオと宇宙原理』〈2〉第一章 ◆意識とは何か
果たして意識とは普遍存在であるのか考えなくてはならない。ガチガチの融通の利かない合理的還元主義では一切はビッグバンと共に単に偶然に発生しただけのものにすぎず、そこに何の意味も有しない、となる。果たして本当だろうか。この宇宙もこの地球も大自然も我々の社会も我々も、知性も芸術も叡智も愛や悲しみも歴史もそれら一切が、何の価値もない単なる偶発的存在でビッグバンの気まぐれの産物でしかないのか―。
筆者は幼少の頃よりずっと自分について考えてきた。存在の不可解に悩まされてきたものだ。しかし、一部の生物学者や物理学者たちが言うように、「あなた」や「私」という存在は無意味なのだろうか。内から発生してくるこの〈意識〉〈思い〉はただの錯覚なのだろうか。では、その錯覚の正体は何であるのか。多くの学者は何も説明することなく、単にその存在を発生論的に無意味(単なる偶然)と結論付けるのである。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)
2020.08.25
『タオと宇宙原理』〈1〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説
9月中旬に刊行する『タオと宇宙原理』の第一章の内容をご紹介する。
◆意識とは何か
我々の意識とは何だろうか。「我」とは意識そのものだが、その意識がどこから来るのかは未だ誰も知らない。脳生理学者は脳内ネットワークが作り出したものにすぎないと言うが、果たしてそうだろうか。確かにそれは一面の真実ではあるが、その主観性が客観として存在し得るだけの説得力をもって脳に依存するという答えの不確かさに、誰しもが疑問を持っているものだ。全ての存在は還元すれば原子に辿り着く。更に、原子を構成する核子(陽子と中性子)や電子、更には核子を構成するクォークなどの素粒子の原理は量子論として理解され、存在の否定の解を導いている(詳細は四章以降に)。結論から言えば、生滅を繰り返す(つまりは固定的存在性が否定される)量子が「私」を形成している以上その「私」も固定的存在性が否定されるということになる。更には、「私」の意識の有意性について改めて議論の余地を残すことになる。すなわち、この意識を存在せずとして否定するのか、あるいは独自存在として肯定するのかという問題が発生する。哲学はこの問題を二千五百年にわたって議論し続けてきた。
(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)
2020.08.24
『タオと宇宙原理』の「はじめに」を公開しました
私はこの春から『タオと宇宙原理』(540頁)の執筆に追われておりましたが、漸く白焼きを戻すことが出来、9月中旬発売の運びとなりました。物理学理論の確認に随分と時間をとられました。この分野は何十年も前から殆ど変わらない内容から、全く異なる内容まで様々で、確認したと思ったらそれが古い情報で修正を余儀なくされるということが頻繁に起こり、うんざりでした。国家の教育機関で体系立てた情報発信が為されていないのは、大いに問題です。何とかそれらの苦難から脱し、8月に形になり、一段落です。1ヶ月もあれば書き上がる予定で春中には出版予定でいたのですが、何かとペースが狂ってしまい、擱筆するまでにずるずると4ヶ月もかかってしまいました。途中で1ヶ月半、ほとんど書かない期間があったときには、却ってストレスになってしまい苦笑いでした。
他に4冊、仕事の合間に同時進行で書いているものですから、ビル内での閉じ籠り状態が続いています。早く終わって太陽に当たり大汗を搔きたいものです。移動も車なので、この5ヶ月間3日を除いて太陽の下を歩いていません。こういう不健康な生活はよくありませんね。幸い、筋トレルームに本格的なマシンがありそこで時々運動できるのが救いではあります。
とは言え、ずっとエアコンの中で生活しているので、大概ウンザリしています。
そういう意味では、コロナ騒動はほとんど私に関係ありません。
太陽の下で暑いアツイと言って汗をかいている世間が実に羨ましい!!
新刊『タオと宇宙原理』の「はじめに」を紹介していますので、よかったら是非お読みください。
斯書は科学と宗教を融合させた内容ということが出来るでしょう。昔流に言うならばニューサイエンスやニューパラダイム系の本です。世に蔓延し絶大な権力を持ってパワハラし続ける唯物論者の日本的科学者や知識人とやらへの反駁の書でもあります。彼らの圧倒的絶対多数状態では蟷螂の斧にすぎないのかもしれないが、理解者が増えてくれることを願っています。主題は仏教哲学に言う「悟り」について語っているものです。540頁もあるので、よほど本気でないと読むのが大変かもしれません。そういう人は、どこからでもいいので、面白そうなところから、是非読んでください。
自分で言うのも何ですが、〈言語次元〉について1章設けていることは、大変に価値のあることと思っております。
また、原子核構造と絡んでの重力や電磁気力といった引力系の構造について、仏教における自我や執著(しゅうぢゃく)ということと連関させて一つの仮説を立てたことも、世界初の分析であり、虚心に読んで頂けると、深い意味に衝撃を受けて頂けるのではないかと思っております。
まあ、ただ逆に莫迦莫迦しいと言われてしまったら、それで終わってしまうのですが、人間原理というものを小宇宙として捉える東洋哲学の観点に立つと、ここに述べた内容は実に小気味いいほどに整合性をもっています。出来得るならば、研究者たちに読んでもらいたいものです。
逍 遥
2020.08.24
『タオと宇宙原理』はじめに
◆はじめに
あなたは何故〈あなた〉なのだろうか
〈世界〉は本当に存在しているのだろうか
なんと、この世界はたった四つの力とたった二種類の素粒子とで出来ていたのである。それは知れば知るほど驚きの、余りに単純すぎる原理である。
斯書では、宇宙物理学の法則を紹介しながら、筆者の専門の仏教哲学や東洋思想とりわけ老子の哲学を通して、〈存在〉の真実について解き明かそうとする試みの書である。一般向けに物理学や哲学が苦手な人にも出来るだけ分かりやすく書いたつもりであるが、後半は少し難解な所があるかも知れない。
この宇宙は自然発生的に誕生したと従来考えられてきたが、ここにきて「人間原理説」が唱えられるようになり、その背景に、神ならぬ宇宙意志の存在を認める動きがヨーロッパ系の学者の間に広まっている。更には、我々の宇宙以外の多次元宇宙までもが数式で導き出されるようになり、物理学は神の領域に入り込んだようだ。そして、遂に彼らが言い出したことは、この世が存在しないということである。
実は、仏教は二千五百年前から量子物理学が解明した真理についてまったく同じ事を語ってきているのである。また、最終章は老子の哲学にも触れ、タオとは何かを解説している。それは、人間の存在そのものであり、仏陀が存在を全否定するのに対し、老子は無為の世界を通して存在を全肯定してみせるのである。そのどちらもが、人間存在の実存性と超越を示しており、凡夫が如何にして生きるべきかを示している。当初予定より大幅なページ増となり五百頁を越えたことは、本が売れないことに等しく悩ましいところではあったが、読者にあられては、どこからでも興味の湧く箇所から読み進めて頂ければと思うのである。勿論、前章から読み進めないと理解が困難な所もあるが、気にせず、流し読みをして頂くだけで充分ご理解頂けるように書いた。特に、一章には斯書の全体像が分かるように、その要諦を述べている。
斯書の最大の特徴は〈言語次元〉というまったく新しい概念について分析を試みていることである。それは、人類の進化の過程でもあり、〈叡智言語〉の獲得の重要性を説いている。更には、重力に関わる原理と人間の精神原理の同一性を分析しているのも世界初の試みであり、興味を抱いて頂ければ幸いである。それは我ながら実に興味深い内容であった。そして、それらの事実を通して仏陀とは何か、解脱なる超自我の覚醒とは何を意味しているのかに言及している。唯物論的還元主義では理解できない深遠なるタオの世界と理論を紹介する。
猶、名を森神から森上に改めたことをここにご報告し、読者のご理解を請うものである。
二〇二〇年八月五日 森上逍遥 識