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2021.05.12
老子とタオ〈20〉
老子『清浄経』第12章を紹介します。
【第十二章 真 常 品】
真常応物 真常得性 常応常静 常清静矣
修道の者に在って、涅槃境なる真常(良智)性が物事に会って自在に対処し、その本(もと)常に変わらざれば真の清静を得ている。事に応じて動じ変ずるも、事無ければ静として止(とど)まるを知る。真常とは道なる玄徳の顕われである。常清常静と雖も相対世界の如くに動性を否定するものではなく、形象をもって察し難き綿々たる空なる流れが週(めぐ)っているのである。
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※涅槃(ねはん) 迷いの火を消した状態。ニルヴァーナ。ニルヴァーナに入ること。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.09
老子とタオ〈19〉
老子『清浄経』第11章を紹介します。
【第十一章 虚 空 品】
観空亦空 空無所空 所空既無 無無亦無 無無既無 湛然常寂 寂無所寂 欲豈能生 欲既不生 即是真静
三心(過去現在未来心)を掃き四相(人我衆寿相)が除かれれば、内に心も形も物も存在しない。唯空のみ存在する。戯論・言説・世俗諦の空も言辞認識をもって得んとすれば再びと空じられてその終(とど)まる所がない。将に真空妙有の実相である。寂静も寂静に執われることなき真寂の域に至ればこれが真静である。
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※戯論(けろん) 形而上学的議論。無益な言論、無意味な話、それごと、たわむれ。
※世俗諦(せぞくたい) 一般的な真理。見定められない宇宙の原理がこの世に形となって現われたありのままの姿。
※真空妙有(しんくうみょうう) 真理ないし真如が一歳の妄想を離れて増すこともなければ減ることもない執着を離れた姿を真空と称し、常住不変であって、しかも現実を成立せしめる真実の有(実存)である点を妙有という。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.05.06
老子とタオ〈18〉
老子『清浄経』第10章を紹介します。
【第十章 虚 無 品】
能遣之者 内観其心 心無其心 外観其形 形無其形 遠観其物 物無其物 三者既悟 唯見於空
能く三毒を滅すれば、心を内観するに心に執われの心はなく、外に形を観るも形に着する心はない。大宇宙を観るに物質形象もないと悟り得れば唯、空のみを見る。心・形・物に一切執われない状態こそが本性の円明なる姿である。物外を超然として浮俗の仮形に繞われることはない。このように雑念執著を遣除した人だけが空なる真性を観ずることが出来るのである。
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※内観 観・観法・正観ともいう。内省によって心の内に真理を観察する仏教一般の修行法。自己そのものを見つめる修行。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2021.04.29
老子とタオ〈17〉
老子『清浄経』第9章を紹介します。
【第九章 気 質 品】
所以不能者 為心未澄 慾未遣也
三毒が滅しないのは未だ心が澄まず欲が遣ぜられていないからである。仏仙神聖へ至らんと発するならば、喜怒哀楽を去らねばならない。則ち喜びの情を化して元性となし、怒りの情を化して元情となし、哀しみの情を化して元精となし、楽しみの情を化して元神となし、欲の情を化して元気となすが肝要である。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)
2020.12.03
老子とタオ〈16〉
老子『清浄経』第8章の続きを紹介します。
【第八章 三 尸 品】(続き)
外相を外相として捉えて内相に入れることなくただその実相のみを心に止める。三毒とは三尸神(さんししん) であり玉枕関(ぎょくちんかん) 、夾脊関(きょうせきかん) 、尾閭関(びりょかん) に住し、順に上中下の焦善悪を管轄する。三関九竅を閉塞(へいそく)せし三尸九蟲(ちゅう)を滅し法輪を転ずる要がある。
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※三尸神(さんししん) 上尸(彭琚。道士の姿)、中尸(彭質。獣の姿)、下尸(彭矯。牛の頭をして人の足をもつ)の三つ。
※玉枕関(ぎょくちんかん) 後頭部に位置。
※夾脊関(きょうせきかん) 背中上部付近に位置。
※尾閭関(びりょかん) 尾骶骨付近に位置。
(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)