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2021年07月

2021.07.04

老子とタオ〈33〉

 以上『清静経』をもって東洋哲学の真髄に触れて頂いた。老子の作というも実際は『老子道徳経』や『易経』を底本とした後世の偽作と思われる。註釈は『宝巻経』として出された「太上老子清静科儀」等からの借用と思われる。周兆昌訳本を私流に手を加えて一般に分かりやすく簡易に紹介したつもりである。

ここで述べていることは、無極或いは太極という全体的根源的存在であり、循環還源の理法である。この理を体得した者が覚者と呼ばれるのだ。この古よりの哲学が現代物理学の理論とも一致している点を改めて理解して頂ければ幸甚である。より直観的に解説したのは物理的哲学的知識ではなく真に体得を望む者にとって、少しでも資助となればと思ってのことである。知識で道を究めんと欲しても、所詮は無理である。究極は体得以外になく、その点を強調しているといえよう。

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【註】この『清静経』が真に老子の作かどうかは疑わしく多分に偽作と思われるのだが、老子の真髄が述べられているという点ではその価値が下がるものではない。明らかに後半の「太上老君日」(第十六章消長品)以後と前半とは違う流れで著わされたものであり、後半部分は宗教的要素を明らかに持たせている。

前半部分においても最後の「可伝聖道」とは、どうも老子らしからぬ表現である。老子が積極的に伝道を促すとはピンとこないところだ。この辺は多分に道教の流れをくむ派によって造られたように思われる。もう一つ文として明らかに流れが飛躍しているところがある。

なんであれ、老子が説くタオの世界は無為の世界である。それは微かにして無限の深さと広がりを持つ概念だ。更には、実存を超克する形で肯定するという現実主義の姿でもある。それは無我なる空を説きながら八十歳まで生きた仏陀の実存とも重なってくる。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)