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2020.09.17

『タオと宇宙原理』〈24〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

◆日本の知識人の異常性

 科学はなくてはならないものであり、人類の未来を決定付けるものである。しかし、ケルヴィンの例でもよく分かるように、科学は絶対ではない。あくまでその時の知見にすぎない。それも間違いかも知れないし、正しかったとしてもそれだけのことで、それ以外は何も知らない「無知である」。謙虚を科学者は忘れてはならない。全智の中の一%も〇・一%も〇・〇〇〇…だってまだ知らないということを自覚し、謙虚であるべきだ。寛容でなければ、中世のように正しい知見を何百年も見過ごすことになるかも知れないからだ。

 にも拘わらず、中世における宗教弾圧よろしく、現代に於いては学者という権威が世の中を支配し自分たちの価値基準に反する者を糾弾している様(さま)には、そら恐ろしいものを感じるのである。もちろん一部の人たちであって、全ての学者がそうだと言っているわけではない。しかし、一部でも彼らの発言には権威が与えられており何とも危険な思想である。我が国の恐ろしさは、それが市民レベルにまで浸透していることである。

 科学者たちは無知なる事を解明することを喜びとしていると語っているにも拘わらず、数千年の歴史を刻んできた宗教に対して一方的に断罪する様(さま)は矛盾に満ちている。あくまで、論理として自分たちの立場からの見解を提示すればいいだけであるにも拘わらず、極めて個人的批判へと陥っているのは残念だ。権威ある彼らの反宗教発言は他者への差別行動を容認する形になった。

 道徳や理性への否定にもつながったからである。これは極めて重大な社会悪となって現代に蔓延している。我が国における学校内やネット上の異常な中傷やイジメ行為などにも、この種の精神構造が背景として影響していると考えられるのである。老人や弱者はますます暮らしにくくなってきている。筆者が若い時の日本人では考えられなかった風潮である。明らかに町単位での道徳は著しく低下していることは客観的事実である。その罪は重い。まあ、唯物論者には罪という概念は存在しないのだが(苦笑)。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 日本の知識人の異常性)