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2020年08月

2020.08.12

否定的体験が侘びへつながる

 この「侘び」の思想が誕生した背景には、当時の日本人、或いは、その後の知性たちが、人生の憂き目に遭った時に郷愁を覚え、仏教的思想の中で清貧や無執着を肯定的に評価した、ということがあったといえるだろう。彼らは、生まれながらの選ばれた社会的地位と、更なる教養を身に付けることによって地位が上がっていくその過程に於いて挫折を味わい、短歌に侘しさや寂しさを表現するようになった。さらにそれを如何に知的な表現方法として用いていくかが知性の証明とされるようになり、それにより高い美意識が生まれることになった。

2020.08.11

室町時代は日本精神の黎明期

 日本の「侘び然びの思想」が文献の中に出てくるのは、古くは奈良時代の万葉集(奈良時代七世紀後半~八世紀後半頃にかけて編纂された日本最古の和歌集)、そして平安朝の古今和歌集(平安時代九〇五年に天皇の勅令で編纂された最初の勅撰和歌集)の中にである。更に下って室町時代に入ると能やお茶や華道や俳諧といった世界で語られてきた。思想にまで昇華されない奈良平安鎌倉の時代には、わびは「わぶ」「わびし」といった使い方が多く、さびも同様で「さぶ」「さびし」「さぶし」といった使い方で、「わび」「さび」という名詞形は共に江戸時代に入ってから用いられたらしい。

2020.08.10

貧しく清く簡素である「侘び」

 言語学的には「わび」とは、自分の意の儘にならぬ様を言う。文法的には、動詞「わぶ」(悲観する、辛く思う、寂しがる、困窮する)の連用形名詞である。

 研究者や茶道家によれば、「侘び」は貧困から出てきた概念だという。その貧困性の中にある枯淡の趣を見出すことで生まれてきた美意識である、と言うのだ。

 ただ「わびしい」だけでは侘びしいから、その状況を克服する形で見出されてきたのが前向きな諦めであり、いまを足る知足の意識だったのである。それはその人物の心に誇りを与えることが出来た。それが後に技芸に表現されるようになり、そこから出てきた美意識なる思想が「侘び」だったのである。

2020.08.09

純粋思想としての〈自然哲学〉

 その原理は人間にとって普遍性を有するものであり、万理に通ずるものとなるだろう。その意味において、この自然原理から導かれる哲学に生きる人間の魂と精神には現実を見誤ることのない確かな眼が養われるのだと、私は信じるのである。

 その哲学とは、純粋思想にほかならない。「大道無形にして天地を生育し、大道無情にして日月を運行し、大道無名にして万物を長養す」との老子のことばが示す通り、天地自然の定めの中に生きんとする精神の発露こそが、誤ることのない道を眼前に顕わし示すのだと思う。いかなる哲学もこれ以上の生き様を有することはなく、これからの人類は壮大なる自然思想へと立ち還るときだと私は思う。

2020.08.09

生命の根源へ立ち還るとき

 人は、生命の根源へと立ち還り、その法則性を原理として人生を把握し、真に生きることの意義を悟り得る社会へと変貌を遂げるべき時代へと、人類は来ているのだと思う。そう転換することにおいて初めて人類は進化という新たな局面を迎えることができるのである。

 人間の知覚は未熟である。知性も未熟である。にもかかわらず、現代哲学者はえらく自信家である。有限のことばだけでいかにして世界を知り得るというのか。その滑稽さを自覚しておく必要がある。ソクラテスではないが無知の知の自覚がいまこそ必要な時代である。 ここに興味深いスピーチを紹介しよう。それはノーベル賞受賞者で量子仮説を提唱して量子力学への道を切り開いたドイツの偉大な物理学者であるマックス・プランクが、1944年、イタリアのフィレンツェで行なったスピーチの一部である。

 最も明晰な科学と物質の研究に全人生を捧げた者として、私は自らの研究結果から、原子について次のことが言えます。物質というものは存在しません。すべての物質は、原子の粒子を振動させ、この極めて小さな原子の太陽系を一つにまとめる力のお陰によってのみ起こり、存在します。この力の裏には意識的で理に適ったマインド(心・精神・意識)が在ると仮定しなければなりません。この心(意識)がすべての物質の母体なのです。

 なかなか興味深い内容である。要するに宇宙を創造した意識が存在すると語っているのだ。

2020.08.08

時代は変わる

 時代はいつも若者に力を与えてきた。サルトルもその一人だったのかも知れない。そしてビートルズ同様に、いやそれ以上に、サルトルは知的エリートに強い影響を与え、政治的行動を促したのである。アンガージュマン。政治的行動を為せ! それは時代の合言葉であった。

 いまわれわれは時代というその全貌を俯瞰することができる。世界中が揺れ動いた社会主義革命は百年もつことなく崩壊した。人びとは人間というものの愚かさをそこに見つめることで、その試みの価値を見出し、次の社会革命へといまだ夢見ている者がいることもまた事実である。そこには社会への不条理観が多くの人たちにあることを意味している。果たして次の文明がいかなる理論や主義をもって社会変革へと挑んでくるのかは分からない。

 しかし一つだけはっきりしていることがある。それは必ず時代は変わるということである。ある時思いもしない大飛躍があることも未来の決まり事と言うことができるだろう。次の時代はAI(人工知能)革命であることは間違いない。それに対して、人類はどこまでそれを使いこなし制御しうるのかが次の課題となるだろう。既述のように、AIと人類の戦いがSF映画よろしく現実化することを、われわれは思考しておく必要がある。もしかすると百年後の近い未来において、人類はAIに滅ぼされる可能性すらあるからである。これは決して酔狂で語っているのではない。

2020.08.07

実存に見る神の否定と孤独

 サルトルは言う、「人間はまず先に実存し、世界内に不意に姿を現わして、その後に定義されるものである」と。「人間は実存の後に初めて人間になるのであり、自らが決意選択した者になるのだ」と、主体性を持って生きることを主張したのである。何故に主体性を持ち得るのかといえば、神が否定され存在しないからであると説くのである。それまでは、神(キリスト教)が「人間はこうであらねばならない」と決定していたが、もはや神は存在せず、それ故、人は自らの本質を選び取った上で未来を創り上げねばならないと説いた。

 その時初めて、人は神の束縛から自由を勝ち得たのである。この場合の神とはキルケゴール的にはキリスト教規範のことであり、サルトル的にはまさに神そのものの存在否定であった。その結果、サルトルを一つの不安が襲うことになる。拠り所のない不安である。指針なき不安であり、規定されるべき規範のなさが、〈実存の不安〉としてサルトルを襲ったのである。それは、サルトルに内在する良心の不安であったのかも知れない。ニーチェほどにニヒルになり得ないサルトルの弱さだったのかも知れない。しかし、実存の哲学とは、一切の思惟と決断を自己一身に引き受けることであった。

2020.08.06

問われる自我との対峙

 実存哲学における〈実存〉すなわちexistence とは、人間の素(す)の状態を意味するものである。〈いまここにある存在〉の意であり、何らかの概念が生じる以前の存在を意味する。そしてそれは、われわれが自分や他者を規定するところのオス・メス的な分類分けや肩書や地位や評価などを意味する〈本質〉essence に先立って存在するものを指す。

 ごく当たり前のことを語っているのであるが、われわれ東洋哲学を学んだ者からすると、〈本質〉という表現には極めて違和感があって、本質という本来的概念は、むしろ実存を指すことばであるはずなのだが西洋哲学においては、このような理解であるらしい。東洋哲学においては、常に自我との対峙が問われるのであり、そこには常に、自我に先立つ〈実存〉が前提である。しかもその東洋の実存は、西洋のそれに比してさらに奥深く、単なる自分や他者という社会的評価の産物であり自他からの評価の中での自分を取り除いただけの実存を意味しない。西洋における実存は東洋においては未だ自我の中に包摂(ほうせつ)されるものでしかないのである。その意味において、東洋哲学、なかんづく仏教や老子などの哲学性は遥かに西洋哲学を凌ぐものであることを理解しておく必要がある。

2020.08.05

無自覚であってはならない!

 われわれは常に自覚しなくてはならないことがある。それは「無自覚であってはならない」ということである。人はあまりに無自覚に社会と関わり、あたかも自分の意思が如くに装って自己を表現しているという錯覚に陥っているのであるが、そこには〈自分〉などという存在はないのである。あるのはただ社会に取り込まれた部品の一部であり、無思考な行動の産物でしかないということである。

 自分が〈自分〉として生きている限りにおいて、自分はそこに存在しているといえるのであるが、単に自分が他者や社会の流れに流されているだけの生き方であったならば、人は真に〈自分〉として生きているとは言えないのである。サルトルは、そのような無思考な生き方を〈即自存在〉と呼んで忌み嫌ったのである。そして人は自主的思考に立った〈対自存在〉として生きろと説いた。そのことによって世界の若者が人生に対してより積極的になったことは大いに結構なことであったのだが、残念だったのは、その自分の思考と信じられていた彼らの思考が単なる人まねでしかなかったことである。

2020.08.04

人生は不条理か

 人生は不条理である、とは実存主義者たちの常套句である。不条理とはその背景に因果律が存在しないことを意味している。ニーチェ、ハイデガー、サルトルといった20世紀の寵児たちは、無神論的実存主義を説き、人びとをそれまでの因果論から〝解放〟した。その結果、それまで神(社会規範)によって与えられていた所与の世界の所与の人生の当たり前の事柄が、因果律として説明できなくなり、その結果として人びとの前に納得がいかない不条理が出現することになった。すなわちそれが体制批判の理由付けとなるのである。現代日本のエリートたちもその例外にもれず、この実存主義者たちからの影響を色濃く受けることとなった。もはや洗脳されたと言った方が正しいだろう。

 その結果、世の中に氾濫したのが〈個人の自由〉である。義務を無視したところの社会に対する無責任であった。人びとは体制を否定することが正義だと教えこまれ、伝統文化といったものまでもが破壊されるようになった。男女のみさかいがなくなり、恥じらいなどということばは死語となった。わが国からヤマトナデシコが消え失せた時代でもある。東武士や九州男児といった意識も嘲笑の対象にこそなれ尊敬されることはなくなったのである。

 かつて、世界中のエリートたちが持ち併せていた「民族の誇り」を日本人だけはすっかり失った時代である。この誇りとはソクラテスのような「命を賭す」といった精神へとつながっていく〈思い〉のことである。団塊の世代はこの〈誇り〉を見失った最初の世代となった。イギリスの歴史学者A・トインビーの名言「12、13才くらいまでにその民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる」の階段をわれわれ日本人は歩み始めたのである。