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2020.08.20
東洋哲学は実践哲学
改めてこうやって西洋哲学と比べると、仏教哲学との差が明然として面白い。東洋の哲学は常に宗教性を帯び修身の意味合いを持つ。つまり、東洋哲学とは実践哲学であり、現在の西洋哲学は言語だけの観念哲学であるということができる。その点、ソクラテスのような命を捨ててまでの一貫した覚悟を有していない。人格性はまったく問われない。その意味では19世紀までの哲学には、まだ人格の向上についての実践が語られていたように思う。もっとも、20世紀とはいえサルトルの実践主義はこれらとはまったく異質のものである。
つまり、現代哲学は、言語を追いかけてことば遊びで民衆を煙に巻くだけのものになってはいないかと懸念する。ウィトゲンシュタインが〈言語ゲーム〉と言ったのは、まさにこのことではないのかと思ってしまうほどだ。それは、哲学が単に理屈を追うだけのものになり下がったからではないかと思う。本来は、もっと直観的で、もっと純粋で魂に訴えるものでなくてはならないと思うのである。そして現代哲学に共通することは唯物論的思考である。それなら、そういう形で意識論をやりたいのなら、彼らは量子物理学や数学や生物学や生理学あるいは心理学をやった方がよいのではないかと私は思う。その点、仏教哲学の方がより健全さを感じるのである。エリートが学ぶべき哲学であると思う。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 独自性への挑戦)