BLOG

2020.08.16

侘しい体験の昇華

 「侘びしい」の原点となった、貧しい、着る物もない、食うものすらない、というその侘しさが高い知性によってより深められ、達観によって昇華されていく。それこそが「侘び」の世界なのである。

 表面的なただの〝体験〟が、時を経ることによって、自分の感覚的な分析と、理知的な分析の両方が相俟って、そこにより深い感性を呼び起こすのである。その時によく味得することで体験は〝経験〟という言葉に変わり、「侘び観」がその内に生じるのである。

 この侘び観を味わい得ることが出来ない人に、坐禅は出来ない。形だけの坐禅となる。何故この侘び観が坐禅を深めるのかと言えば、侘び観には諦めがあるからである。諦めがない者に禅は出来ないし、諦めがない者から、侘びの思想は見出せない。諦めとは諦観までに昇華されていなくてはならない。そういう意味では「然び」に於いても然りである。

 限りない、底をついた貧乏の中で、それ以上のものはない、それ以上といえばもう死しかないという状況下にあって、その中で自分がどう生き抜くのかという、非常に厳しい現実が自分を襲う。問い詰めてくる。自分だけではない。家族全員を襲うわけである。

 その絶体絶命の、生死を超えた絶対観、厳密には生を否定した死観に到らなければ「侘び」の本義は見出され得ぬのである。これは生死観ではなくして、ただ一本の死観、そしてただ一本の生観として、その両方が共に一体のものとしてその人の中に収まってくる、襲ってくる。自分自身に攻め入ってくるのである。

 それら非情なまでの現実の真っ只中で、それを超えんとした時に、その人の禅というものが深まり、俗世の枠を超えられるのである。意識が超然として、それまでのただの凡人から脱俗した意識が生まれてくるのだ。

(『侘び然び幽玄のこころ』第五章 「侘び然び」の再定義 絶対感への昇華)