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2020.08.09

純粋思想としての〈自然哲学〉

 その原理は人間にとって普遍性を有するものであり、万理に通ずるものとなるだろう。その意味において、この自然原理から導かれる哲学に生きる人間の魂と精神には現実を見誤ることのない確かな眼が養われるのだと、私は信じるのである。

 その哲学とは、純粋思想にほかならない。「大道無形にして天地を生育し、大道無情にして日月を運行し、大道無名にして万物を長養す」との老子のことばが示す通り、天地自然の定めの中に生きんとする精神の発露こそが、誤ることのない道を眼前に顕わし示すのだと思う。いかなる哲学もこれ以上の生き様を有することはなく、これからの人類は壮大なる自然思想へと立ち還るときだと私は思う。

 その哲学を持ち得た者だけが、人生の真の価値を見出し、生きることの本質をその精神に描き得るのだと思う。だが、現実の世界にはびこる思想は自己の責任を省みないところの自己の権利や主張だけが前面を飾る度を越した我欲の思想でしかない。この世で一番の価値はカネであり、権力や名声であると信じて疑わない愚かな人間で満ち溢れている。若い子たちのネット上に見る目立ちたい一心の心理は必ずしも悪いとは言わないが、その精神上に何かが欠けているのだとも感じさせられる。

 現実の人間社会は、時代時代の価値の流行に流されて自らの欲望を満たすことのみを追求し、その渦の中に人類が放り込まれ呻吟していると私には映る。だが、もう21世紀である。民族の対立もこれからは鉾を収め、生物の弱肉強食という一つの競争原理を覚って現実を受け入れ、そこから新たな原理すなわち乾季の後の雨季が如き慈愛原理を把握し、その両者の弁証法的統合へと向けられるべきだと思うのである。それは人生における厳しさの正しい把握とそれを支え合い助け合う慈悲なる精神の胚胎とを意味し、新たな人類の精神の枠組を導き出すであろうと思うのである。

 そのような新たな思想としての〈自然哲学〉を私はここに提唱したい。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 〈自然哲学〉の提唱)