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2020.08.05
無自覚であってはならない!
われわれは常に自覚しなくてはならないことがある。それは「無自覚であってはならない」ということである。人はあまりに無自覚に社会と関わり、あたかも自分の意思が如くに装って自己を表現しているという錯覚に陥っているのであるが、そこには〈自分〉などという存在はないのである。あるのはただ社会に取り込まれた部品の一部であり、無思考な行動の産物でしかないということである。
自分が〈自分〉として生きている限りにおいて、自分はそこに存在しているといえるのであるが、単に自分が他者や社会の流れに流されているだけの生き方であったならば、人は真に〈自分〉として生きているとは言えないのである。サルトルは、そのような無思考な生き方を〈即自存在〉と呼んで忌み嫌ったのである。そして人は自主的思考に立った〈対自存在〉として生きろと説いた。そのことによって世界の若者が人生に対してより積極的になったことは大いに結構なことであったのだが、残念だったのは、その自分の思考と信じられていた彼らの思考が単なる人まねでしかなかったことである。
人生は不条理か―
人はいつも不満を抱いて生きている。自分の意のままにならぬ現実に対して常に憤り、他者を恨み、自分に苛立っているものだ。しかし果たしてそれは真実の自己の姿であるのだろうか。自分の不満は自己への不満なのであって、実は他者への不満、憤り、苛立ちではないのかも知れない。人生の不条理は、実は一切の条理であって、不条理とは己の心の有り様そのもののことでしかないのかも知れない。自分の弱さが他者を不条理と決めつけ、自分の傲慢さが自分の正当性を唱え、自分の怠惰さが他者への怒りへと転嫁されているのではないだろうか。
人は抵抗することを許されない形で働かなくてはならない。生きるとはそういうことである。カネを稼がない者に生きる資格はないのである。この現実と自分の心に根付いている理想(希望)との対峙が人を葛藤へと陥れるのである。
果たして生きるとは何を意味するのであろうか。そもそも〈私〉が存在するとはいかなる原理に立ち、それを是とするものであるのか、人は常にこの問いに迫られているのである。サルトルの実存よりも遥かに深い〝実存〟に気付かなければならないのだ。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 人生は不条理か)