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2020.08.01
カントの『純粋理性批判』と侘び然び
貧しい馬具職人の息子に生まれたカント(一七二四~一八〇四)は従来の常識であった客観的存在とそれに伴う認識を否定し、認識にはア・プリオリ(先天的)な「形式」が存在するとし、この「形式」が対象を構成させ、そこに認識も生じるのだと主張した。それは恰も量子論のボーアの確率論やユングの元型を彷彿とさせるが、現代にあっては然(さ)したる面白味もないほどの陳腐性を有するものだ。心理学や脳生理学の世界ではそんなことは常識であるからである。ならば、客観は存在しないのかと言えば明らかに在るのだ。しかし、それを認識する側の意識の作(はたら)きに於いて、それは二次的となり、第一次的認識が対象を自我の内に構成するのである。しかし、だからといってそれが正しいということにはならず、寧ろそれ故に間違いであるとされるのである。仏教的観点に立つならば、これこそが愚見の極みということになる。その意味ではカントもその昔、『純粋理性批判』の中でその点を指摘しているのである。そこまでは極めて常識的で何も問題はない。
そしてカントは良心からの「無条件命令」に人は従うべきと説いた。そしてそこにこそ自由があると主張した。これも悪くない思惟である。しかし、何とも哲学的でないことに、違和感を覚える。西洋人の好きな良心などというのは実に陳腐で凡そ哲学の産物と言うにはお粗末である。そして彼は形而上学的命題を理論理性の枠から除外し、その上で形而上学の再構と復権を考えていたのだが、完成を見ることはなかった。それは、彼が説く道徳法則がキリスト教規範から抜け出すことがないままの良心への帰属であり隷属であったからである。
カントにしてもデカルトにしてもヨーロッパ哲学の真髄は言葉である。ユダヤ聖書に「初めに言葉ありき」と述べられている様に、西洋哲学は言葉の領域から抜け出すことが出来ないままに今に到っている。一方、禅を始めとして釈迦らの説は言辞を捨て去り自我を捨て去り普遍の実体も思惟も一切を否定して、微塵の言語即ち価値観を侵入させることなく、自己の本能の意識も閉め出し、只、一点に向かう意識のみに物の本質を見出そうとするのである。その一点に向かう意思のみがダーザイン(独Dasein「存在」)であるのだ。だが、「存在」は西洋的思惟の中には一切見出せないのである。
(『侘び然び幽玄のこころ』第四章 ヨーロッパに於ける「侘び然び幽玄」 カント純粋理性批判の所与ア・プリオリの未熟)