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2020年08月

2020.08.31

『タオと宇宙原理』〈7〉第一章 ◆意識とは何か

 人類が集団を形成するようになって以降、人々は恐怖心を背景として「神」なる神秘力を恐れまた期待するようになった。それは、一人の霊感者の出現によって始まり、その強い呪師の意志が人々を束ね、勇気を与え、集団に平安を与えてきた。時に人供(ひとく)という恐ろしい風習までをも作り出し、犠牲という形式を用いて自分たちの行為の純粋性を示して、怒る神の許しを得ようとしたのである。このように神とは怖い存在であった。呪師の強い精神は更に人々の心を捉え、心正しく生きることを強調し、そうでない者に罰が与えられることを説いた。そこには、その呪師の知的能力の差により集団の文明的進化に大きな隔たりを作り出していくことになる。優れた呪師が出現した所には、それまでの怖い神が同時に慈愛の神として語られるようになり、それは遂に宗教としての形を成すところまで発展する。そこからは、より哲学的側面としての教義が形成され、他教との競合の後、勝ち残った集団、教えが現代まで続いている。

 それらの代表が現代に於いてはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒教、神道等である。それらに共通することは、普遍的善悪が語られていることであり、それらを統(す)べる絶対者の存在である。厳密には仏教だけは異なるが、大衆仏教に於いてはこの範疇に入る。つまりは、そこには(相対的)絶対者としての神的概念が存在するのである。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)

2020.08.30

『タオと宇宙原理』〈6〉第一章 ◆意識とは何か

 しかし、いまや一般庶民に到るまでもが「心」を失い神棚や仏壇に手を合わすことを忘れてしまっている。このままでは、社会はますます険悪化していくであろうことが、容易に想像されるのである。更には、宗教観への偏見を抱くようになり、何の思考もなすことなく「神なんか居るわけないだろ! ばぁか!」といった短絡へと陥ったのである。考え尽くした末に神はいないと結論付けたのならそれはそれで結構なのだが、一度たりとも思考することなく「ばぁか!」では余りに知性が欠落しているとしか言えない。それは一度も思考することなく「わたし神様信じてる!」という女の子や、権力・カネ信仰に走る愚者の無知とどこも変わらない。

2020.08.29

『タオと宇宙原理』〈5〉第一章 ◆意識とは何か

 日本では、大東亜戦争(第二次世界大戦)の敗戦を機に、それまでの家族制度が崩壊して核家族化が浸透し、さらなる民族否定の義務教育が追い打ちを掛ける中で、唯物主義も同時並行的に社会主義者の教師たちにより敷衍(ふえん)される事となった。その結果は、以前はどの家も鍵を閉めなくても安全だった日本社会が、いまや鍵を閉めても破壊され、道行く人が暴行されるのが普通の社会となり下がった。それでも、欧米他の先進国の中で一番安全であることに変わりはないことが、また驚かされることではある。

2020.08.28

『タオと宇宙原理』〈4〉第一章 ◆意識とは何か

 ギリシャ哲学に代表される西洋哲学に於いても、哲学のスタートは「神」の理解からであった。当時の知的人物らが、庶民が考えつくこともない理屈を考え、神の存在の有無を論じ、より優れた者は自然哲学を学ぶ者となった。ピタゴラスに代表される偉大な哲学者は、現代人の大半が理解できない数学(幾何学)の道を切り開き、同時に自然と人間の意識とを神の創造物として分析した。西洋知識人の多くはいまだにプラトンを始め、この古代の哲学者たちへの敬意を忘れない。この欧米人の感性を日本人の多くが疾(とう)に失ってしまっていることは、日本の未来に暗雲を棚引かせているように思えてならない。

 ユダヤに於いても、五千年も昔からの歴史を重んじ、そこに現われる信仰厚い偉人たちに敬意を払っている。偉大な哲学の歴史を持つインドに於いても同様である。中国の聖人たちは、いまも我々の精神の支柱として君臨している。にも拘わらず、近年の唯物論者の急増には残念ながら抗しきれていないようだ。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)

2020.08.27

『タオと宇宙原理』〈3〉第一章 ◆意識とは何か

 哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは、意識について、物理学で基本構成単位として用いる空間や時間や質量などと同様の自然を構成する基本要素のひとつと仮定している。この考えは、古代ギリシャの時代からあるもので、むしろそれが当たり前だったのだが、哲学者にして数学者だったデカルトの物心二元論が登場して以降、科学が発達するに伴い、いつの間にか唯物主義に席捲された学者の大半は意識も単なる原子の寄せ集めと考えるようになり、意識の深淵について一切触れようとしなくなった。哲学を差し措(お)いて意識を単なる偶然の産物以上のものではないとしてしまったのだ。その結果、それまで人類が築いてきた一切の価値を否定し、ニヒリズムへと陥ってしまったのである。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)

2020.08.26

『タオと宇宙原理』〈2〉第一章 ◆意識とは何か

 果たして意識とは普遍存在であるのか考えなくてはならない。ガチガチの融通の利かない合理的還元主義では一切はビッグバンと共に単に偶然に発生しただけのものにすぎず、そこに何の意味も有しない、となる。果たして本当だろうか。この宇宙もこの地球も大自然も我々の社会も我々も、知性も芸術も叡智も愛や悲しみも歴史もそれら一切が、何の価値もない単なる偶発的存在でビッグバンの気まぐれの産物でしかないのか―。

 筆者は幼少の頃よりずっと自分について考えてきた。存在の不可解に悩まされてきたものだ。しかし、一部の生物学者や物理学者たちが言うように、「あなた」や「私」という存在は無意味なのだろうか。内から発生してくるこの〈意識〉〈思い〉はただの錯覚なのだろうか。では、その錯覚の正体は何であるのか。多くの学者は何も説明することなく、単にその存在を発生論的に無意味(単なる偶然)と結論付けるのである。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)

2020.08.25

『タオと宇宙原理』〈1〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

9月中旬に刊行する『タオと宇宙原理』の第一章の内容をご紹介する。

◆意識とは何か

 我々の意識とは何だろうか。「我」とは意識そのものだが、その意識がどこから来るのかは未だ誰も知らない。脳生理学者は脳内ネットワークが作り出したものにすぎないと言うが、果たしてそうだろうか。確かにそれは一面の真実ではあるが、その主観性が客観として存在し得るだけの説得力をもって脳に依存するという答えの不確かさに、誰しもが疑問を持っているものだ。全ての存在は還元すれば原子に辿り着く。更に、原子を構成する核子(陽子と中性子)や電子、更には核子を構成するクォークなどの素粒子の原理は量子論として理解され、存在の否定の解を導いている(詳細は四章以降に)。結論から言えば、生滅を繰り返す(つまりは固定的存在性が否定される)量子が「私」を形成している以上その「私」も固定的存在性が否定されるということになる。更には、「私」の意識の有意性について改めて議論の余地を残すことになる。すなわち、この意識を存在せずとして否定するのか、あるいは独自存在として肯定するのかという問題が発生する。哲学はこの問題を二千五百年にわたって議論し続けてきた。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 意識とは何か)

2020.08.24

『タオと宇宙原理』の「はじめに」を公開しました

私はこの春から『タオと宇宙原理』(540頁)の執筆に追われておりましたが、漸く白焼きを戻すことが出来、9月中旬発売の運びとなりました。物理学理論の確認に随分と時間をとられました。この分野は何十年も前から殆ど変わらない内容から、全く異なる内容まで様々で、確認したと思ったらそれが古い情報で修正を余儀なくされるということが頻繁に起こり、うんざりでした。国家の教育機関で体系立てた情報発信が為されていないのは、大いに問題です。何とかそれらの苦難から脱し、8月に形になり、一段落です。1ヶ月もあれば書き上がる予定で春中には出版予定でいたのですが、何かとペースが狂ってしまい、擱筆するまでにずるずると4ヶ月もかかってしまいました。途中で1ヶ月半、ほとんど書かない期間があったときには、却ってストレスになってしまい苦笑いでした。

他に4冊、仕事の合間に同時進行で書いているものですから、ビル内での閉じ籠り状態が続いています。早く終わって太陽に当たり大汗を搔きたいものです。移動も車なので、この5ヶ月間3日を除いて太陽の下を歩いていません。こういう不健康な生活はよくありませんね。幸い、筋トレルームに本格的なマシンがありそこで時々運動できるのが救いではあります。

とは言え、ずっとエアコンの中で生活しているので、大概ウンザリしています。

そういう意味では、コロナ騒動はほとんど私に関係ありません。

太陽の下で暑いアツイと言って汗をかいている世間が実に羨ましい!!

新刊『タオと宇宙原理』の「はじめに」を紹介していますので、よかったら是非お読みください。

斯書は科学と宗教を融合させた内容ということが出来るでしょう。昔流に言うならばニューサイエンスやニューパラダイム系の本です。世に蔓延し絶大な権力を持ってパワハラし続ける唯物論者の日本的科学者や知識人とやらへの反駁の書でもあります。彼らの圧倒的絶対多数状態では蟷螂の斧にすぎないのかもしれないが、理解者が増えてくれることを願っています。主題は仏教哲学に言う「悟り」について語っているものです。540頁もあるので、よほど本気でないと読むのが大変かもしれません。そういう人は、どこからでもいいので、面白そうなところから、是非読んでください。

自分で言うのも何ですが、〈言語次元〉について1章設けていることは、大変に価値のあることと思っております。

また、原子核構造と絡んでの重力や電磁気力といった引力系の構造について、仏教における自我や執著(しゅうぢゃく)ということと連関させて一つの仮説を立てたことも、世界初の分析であり、虚心に読んで頂けると、深い意味に衝撃を受けて頂けるのではないかと思っております。

まあ、ただ逆に莫迦莫迦しいと言われてしまったら、それで終わってしまうのですが、人間原理というものを小宇宙として捉える東洋哲学の観点に立つと、ここに述べた内容は実に小気味いいほどに整合性をもっています。出来得るならば、研究者たちに読んでもらいたいものです。

逍 遥

2020.08.24

『タオと宇宙原理』はじめに

◆はじめに

あなたは何故〈あなた〉なのだろうか

〈世界〉は本当に存在しているのだろうか

 なんと、この世界はたった四つの力とたった二種類の素粒子とで出来ていたのである。それは知れば知るほど驚きの、余りに単純すぎる原理である。

 斯書では、宇宙物理学の法則を紹介しながら、筆者の専門の仏教哲学や東洋思想とりわけ老子の哲学を通して、〈存在〉の真実について解き明かそうとする試みの書である。一般向けに物理学や哲学が苦手な人にも出来るだけ分かりやすく書いたつもりであるが、後半は少し難解な所があるかも知れない。

 この宇宙は自然発生的に誕生したと従来考えられてきたが、ここにきて「人間原理説」が唱えられるようになり、その背景に、神ならぬ宇宙意志の存在を認める動きがヨーロッパ系の学者の間に広まっている。更には、我々の宇宙以外の多次元宇宙までもが数式で導き出されるようになり、物理学は神の領域に入り込んだようだ。そして、遂に彼らが言い出したことは、この世が存在しないということである。

 実は、仏教は二千五百年前から量子物理学が解明した真理についてまったく同じ事を語ってきているのである。また、最終章は老子の哲学にも触れ、タオとは何かを解説している。それは、人間の存在そのものであり、仏陀が存在を全否定するのに対し、老子は無為の世界を通して存在を全肯定してみせるのである。そのどちらもが、人間存在の実存性と超越を示しており、凡夫が如何にして生きるべきかを示している。当初予定より大幅なページ増となり五百頁を越えたことは、本が売れないことに等しく悩ましいところではあったが、読者にあられては、どこからでも興味の湧く箇所から読み進めて頂ければと思うのである。勿論、前章から読み進めないと理解が困難な所もあるが、気にせず、流し読みをして頂くだけで充分ご理解頂けるように書いた。特に、一章には斯書の全体像が分かるように、その要諦を述べている。

 斯書の最大の特徴は〈言語次元〉というまったく新しい概念について分析を試みていることである。それは、人類の進化の過程でもあり、〈叡智言語〉の獲得の重要性を説いている。更には、重力に関わる原理と人間の精神原理の同一性を分析しているのも世界初の試みであり、興味を抱いて頂ければ幸いである。それは我ながら実に興味深い内容であった。そして、それらの事実を通して仏陀とは何か、解脱なる超自我の覚醒とは何を意味しているのかに言及している。唯物論的還元主義では理解できない深遠なるタオの世界と理論を紹介する。

 猶、名を森神から森上に改めたことをここにご報告し、読者のご理解を請うものである。

二〇二〇年八月五日 森上逍遥 識

2020.08.23

渋き「然び」

 現在、一般には「侘び然び」と一つの単語、一つの名詞になってしまっている風がある。そういう意味では、どちらがどうと、今更あまり拘わらなくてもいいのかもしれない。

 敢えて違いを言うとすれば、「侘び」の方がより質素で簡素な意味合いを強く持ち、「然び」は必ずしもそうではない、という点とも言えるだろう。

 「然び」の概念は、平安時代に於いては仏教の無常観を指しているのだが、室町時代以降は、古びて味わいのあること、閑寂な趣を指してくるようだ。特に茶の世界に於いては、それが強調され現代に到っている。

 さらに「然び」には〝渋み〟の意味が加味されることとなる。後世この概念が重要な美意識となって文化人を魅了する様になるのだが、実は、この概念こそが「侘び然び」を低次元へと引き落としたものでもあったのである。