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2020.07.31

ロゴスとパトスを包含する「侘び」

 デカルトは、キリスト教教義に反すれば死刑もあり得るというヨーロッパ世界観の中で精神と物体の二元論を説き、それが自然科学の発展に大きく影響したことはよく知られている。では、そのデカルトにとって「侘び」は思惟する我としてどう捉え得るものなのであろうか。彼がやったことは飽くまで事象の分析であって超越ではなかった。論理は常に言辞の枠から超えることは許されず、その結果として分析不能の事柄を切り捨てる。その意味では魂の叫びとしてのパトスも否定されることになり、真偽の領域から除外されることになった。だからこそ大量殺戮や公害などの禍を孕ませながらも、科学が発達する原動力となり得たのである。

 だが、科学は、デカルトがいなくても発達進化したであろうことは容易に想像がつく。デカルトをそこまでの存在と規定すべきではない。科学者たちにも失礼である。所詮は限定されたヨーロッパという価値範疇から抜け出すことなく、しかも言辞の枠の中で、更に限定された意思を用いる方法で、果たして普遍的真理を見出せるのかという疑問が呈されるのである。デカルト的思考では、感情は一切の劣性と見なされ、感覚もロゴスに劣るものと見なされる。

 だが、「侘び」は、そのロゴスとパトスとを包含したものだ。論理は飽くまで言辞をもって成し得、感情もその分析と共に言語化出来るものである。その上で現実に処した人生の選択としての侘びは、一つの哲学的思惟として人類進化の一つの形態として充分に認識仕得るものである。

 本来、哲学とは科学同様に実用されなくてはならない。その実用という点に於いて、侘び的生き方は未来の地球を枯渇させずに人類の延命を導くといった意味付けも含めて、評価されるものである。この事は人間がよりよく生きるという観点に立脚した時、デカルトよりもより現実肯定型であり、尚且つ他者との対立を招きにくいという哲学が求める社会秩序の構築という観点から「侘び」はデカルトの上位に位置するのである。

 その意味に於いて、侘びの哲学の方がデカルトの二元論や懐疑法による真理探究を遙かに凌駕していると言えるのである。それは、現実という対象の処理の仕方に於いて侘びが圧倒するからである。

「生」は「現実」を抜きに捉えることは出来ず、その現実肯定の中から如何にその本質を見極めるかにある。その点に於いて、デカルト的思考は侘び的思考に劣るのである。彼は晩年(一六四九)に於いて突如『情念論』を述べており、その心情に大きな変化があったものと思われるが、残念ながら未熟の儘(まま)に終わっている。

(『侘び然び幽玄のこころ』第四章 ヨーロッパに於ける「侘び然び幽玄」 デカルト・懐疑法より上位意識としての「侘び」)