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2020.07.26
言語を嫌う東洋と言語にこだわる西洋
興味深いことは、東洋哲学は徹底して言語を嫌うのである。西洋の言語学とは根本的に異なる点である。西洋人がことばにこだわるのは聖書(新約=キリスト教典と旧約=ユダヤ教典)を暗記させられたせいかも知れない。またユダヤやギリシャの数字や文字にはそれぞれに特殊な意味が隠されており、そういったことも文言の分析といった学問へと発展したのかも知れない。聖書のはじまりが〈神の発することば〉だったことにも大きく起因しているのかも知れないが、何であれ、聖書からまったく離れてユダヤ人や紀元後のヨーロッパ人の哲学が発展したとは考えにくい。
この文言に呪縛されているユダヤ人哲学者は、ここから脱することは不可能だろう。日本人のようにいとも容易く「無思考に」自分の信仰や神を捨て去ることなど彼らにはできない〝神業〟であるからである。それにしても、ノーベル賞受賞者の多くがユダヤ人であることからも分かる通り、彼らは極めて優秀である。その根本の要因の一つに聖書があり、彼らをして学問へと向かわしめるのだと思う。
もちろんギリシャ哲学の流れはそれとは異なるのではあるが、それ故に、ギリシャ系は常にオリンポス神観的飛躍を持ち得ていたのかも知れない。その点、ユダヤ系哲学者には絶対者であるヤハウェ(神)について論ずることが許されず議論の対象として扱いにくいという側面があったことは事実だろう。中でも分析哲学の祖といわれるユダヤ人のウィトゲンシュタインは厳格なカトリック教徒であったが、ユダヤ教にもカトリックにも反するゲイであった。ゴモラやソドムという背徳の町が神の怒りによる硫黄と火によって滅ぼされたことは旧約聖書(ユダヤ教典)を読んだことがない人でもハリウッド映画でご存知であろう。ウィトゲンシュタインは自分がソドムやゴモラの住人であることを自覚していたはずである。
その結果として彼は形而上学、すなわち神を目の前から消し去ったのかも知れない。そうすることでしか自分のアイデンティティを確立できなかったからだ。そうなれば、徹底した排斥をしない限り、逆に自分が返り討ちに遭ってしまう。だからこそウィトゲンシュタインの言語分析は徹底し「およそ語られ得ることは明晰に語られ得る。論じ得ないことについては、人は沈黙せねばならない」と言い、「これで哲学すべての論考は完結した」などといった傲慢へと陥ったのである。そこまで行かなければ彼を支配していた不安が払拭できなかったからであろう。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 哲学の根本命題は二つ)