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2020.07.21
哲学としての幽玄
載営魄抱一 営える魄を載んじ一を抱いて 霊より汚れし魄を除き一なる道を抱きて
能無離乎 能く離れしむる無からんか そこから離れるな
専気致柔 気を専らにし柔を致して 呼吸を整え
能嬰児乎 能く嬰児のごとくか 赤子が如くに浄まり
滌除玄覧 玄覧を滌除して 幻想を除き
能無疵乎 能く疵無からしめんか 曇り無きようにせよ
茲に出てくる玄覧の玄とは本来の深い意味と異なり、この場合に限っては幻と同義に用いられている。この場合の玄は、日本人の幽玄の玄とかなり近いものとなる。だが老子は、それを取り除けと言っているのである。即ち、お前の真の霊(一)こそが本物であって、その一にこそ心を向けて離れてはならんと言っているわけである。わが国に於ける幽玄観には、この種の厳しさは一切見受けられない。
中国天台宗の開祖である隋の智顗大師(五三八~五九七)は『金剛般若経疏』の中で「般若幽玄 微妙難測 假斯譬況以顯深」と記し、唐の華厳宗の僧・法蔵(六四三~七一二)は『華厳経探玄記』の中で「畢竟無底曰深 幽玄無極故曰甚深」と述べている。両者ともその意味する所は経なり法なりが神秘甚深であり極まりなく如何に奥深く妙なるものであるかを強調している。日本の能の幽玄にはこういった哲学性はない。
(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 哲学としての幽玄)