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2020.07.13
透き通る陽性の幽玄
ここまでの劇的な感動ではないが、静かに深くそして長く筆者の心を支配した光景というのがもう一つある。それは、少年から青年期における日常の中の幽玄の表出であった。日常の通学路を月夜に通るとき、ある一角に来ると目の前の湾に、その月が映りその光が水面に乱反射する様がこの世のものとは思えない美しさで、穏やかな漣に揺れるその光は幻想そのもので、その澄んだ空気感はわが心を捉えて離さなかった。それはとても平和である。過去劫来の時と未来永劫の時とが共に一つとなって顕われたが如きである。もう余りの美しさに心が溶けて無くなってしまいそうで、その絵が如き情景はその後も現在に至るまで、筆者の幽玄観の輪郭を成すものである。
日常的な光景であったにも拘わらず、それを目にする為には、月の出現時間と帰宅が遅れることが必須条件だった為に、思いのほか鑑賞の日々は少ないのではある。もう一つの問題は、それを見る為に佇む場所がなかった為に、そこに立って見ていることが「変な人」になってしまうという日本人の狭量性故に、それ程感動していながらも、見続ける時間はせいぜい数分であったという悲劇があった。今やその様な景色を見る機会も場所も全くない現在、もっと沢山、何より写真に収めておくべきだったと後悔しても遅いのではある。
その淡い光がいまも心を捉えて離さないのだ。湾の波が大きい時にはそれは全く美しくない。陽性の幻想は穏やかな空気の流れからしか生まれない。日本海の海の様な荒々しさも幻想的である場合があるが、それは陰性が強く、一瞬の感動や衝動はあるのだが、美として深く心の奥深くにまで入り込んでくることはない。月光はそれだけで幻想的ではあるが、満月がただ単に空に浮かんでいるだけでは、その魅力は半減する。その光が、地や水面に反射し照らしてこそ、その月の妙味が放出されて幽玄となり、人の心を癒し慰め、また清らかとさせるのである。
(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 透き通る陽性の幽玄)