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2020.07.05
過去も現在も未来も同時に存在する
さて、時間はどうして生まれたのだろうか。
われわれがそれを考えることはほとんどあり得ない。73億強の人類の中で時間を哲学する者など数えるほどしかいないだろう。なぜならそれは、生まれた時から当たり前のものだからである。われわれが生きるということは時間が経過することを意味したからだ。しかし、この目に見えない時間もアインシュタインの登場で一気に注目を浴びることになる。一般に時間とは時計とともに文明人には認識され、未開人には太陽の日の出と移動、日没、そして四季や乾季雨季、動植物の出現などによって日常的には認識されるものである。そこに心理的時間が加わってくる。
ところがアインシュタインは、重力による空間のゆがみによって時間のスピードが変化すると言い出したのである。思いもしない理論に人びとは驚いた。そして、この時間は空間とともに存在することを再認識させられたわけである。それはビッグバンにより宇宙が誕生し「宇宙の晴れ上がり」のときに時間が発生したということが近年言われるようになった。なんと時間も物質的な捉え方がされるものであったということである。
地球上のニュートン力学で計算できる世界では、時間は一定の速度で経過する。ところが量子の空間ではそうではなくなるというのである。相対的で4次元以上の存在なのか、エントロピーの増大に伴い母宇宙から子宇宙、孫宇宙を生み出していくという多元宇宙への展開を示すものなのか、エネルギーバランスを取るために時間が逆に進む子宇宙が生まれ反転宇宙が存在するのか、直線的で過去は一切消失していくのか、空間に量子ゆらぎがあるように時間にも量子ゆらぎが存在し時間の隙間で移動が可能なのか、相対性理論が正しければ過去も現在も未来も同時に存在することになる…といった具合に真実の宇宙の理解は極めて難しい。因みに宇宙の宇は空間を、宙は時間を意味する。
時間とは常に存在するものであり、空間だけが生成と消滅とを繰り返すと言う物理学者もいれば、空間は存在する必要はなく、時間さえあれば生命は生きられるという意見もある。時間の理解は空間以上に難しい。われわれが時間を意識するのは昼夜があることと、食欲などの心身の欲求、そして死に向かっているからである。これらの意識される時間の矢の流れがなければ、時間の観念が生じることはないだろう。単に状況の〈変化〉だけがあるのであって、時間の矢が未来に向かって進んでいるとは認識しない。老化すること(死に向かっていること)がわれわれに時間を自覚させるのである。
と言うと、「締切に追われている時ほど時間を意識することはない」と言い返されそうだ。確かにその通りだ。それは締切という死があるからなのだ。そのような人為的なことを一切排除して分析したときには、人間の老化などが終点(死)への時間観念を生じさせるのである。まあ、それは心理的時間でもある。問題は、その時間は現存在たる〈私〉にどのような意味付けをするのかということである。生命時間としての単なる締切なのか、それとも限られた単位としての循環史観的区切りなのか、その中でどう対応すべきなのか…われわれに迫ってくるのだ。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 時間は存在しないのか)