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2020.07.03

人は誰しもが宇宙の中心である

 前回、「物質は最小単位になったとき、量子の状態では物質なるものはもはや存在しない」という物理学者のプランクの説を紹介した。それに対して、西洋哲学の観点では、「外界は、私の意識によって生じているもので、自分がいなくなれば世界も消え失せてしまう」「外世界も内世界も、唯一の自分だけの錯覚の世界だ」と主張することを述べた。

 しかしその論理展開にはどうしても無理があって、自分が存在していようがいまいが外界は存在するのである。そのことに恐怖を抱き嫌悪したのがレヴィナスである。「明日、突然私が死んでも何事もなく存在し続けるこの世界が私は恐ろしい」と述べた。彼は空間的時間的存在のすべてを他者と呼んで、その他者に恐怖し克服しようとするのだが、自分自身の存在を危うくするものとして「他者を殺したい」と叫んだ。それは彼がアウシュビッツで死を覚悟したその時の叫びでもあった。自分がいようがいまいが存在する絶対なる「他者」、この自分の一切を否定してくるこの存在に圧倒されたのである。

 パスカルも同じようなことを述べる。「この無限の空間の永遠の沈黙が私を恐れさせる」と。そして「実在とは、至るところに中心があり、どこにも周縁がない無限の球体である」とも語る。彼はデカルトを嫌い、直観的原理を説いて「心情は理性の知らないそれ自身の理性を持つ」として、人は誰しもが宇宙の中心と説いたのである。これは私が19歳のときに説いていたものとまったく同じ見解である。この見解はいまも変わらない。実に空間とは、そこに立つ者の知性と直観と頭脳の機能によってまったく違って見えるものといえるだろう。

 だが、レヴィナスもパスカルも、この、人も含めた世界が実はわれわれの共同の錯覚であることには思いが到っていない。仏教ではそう説くのである。それはまさに夢の概念に近いものである。われわれは「何かの錯覚」の中で自分を認識し、外界を把握し、錯覚という手法をもって世界を理解し得る存在なのだ。主体者たる自分と関係なく、空間世界も精神世界も存在し、あたかもそれは真実、実在かのように映る。しかし、これらのすべては一瞬にして消え失せるものでしかないのかも知れない。

 一見、西洋哲学も仏教も同じことを説くのである。いまやそこに量子物理学が割り込んできた。いや、割り込んできたから二者は同じように聞こえ始めたのだ。いずれ、われわれの脳は、この3次元空間をまったく別な形で把握し一つの次元を越えた形で、4次元としてこの空間を認識するようになるだろう。

 私が10代のときから瞑想や思惟を通じてずっと感じていることは、次元は重なって存在するということだった。そのことは物理学によって証明されているのだろうが、そのことを思うと、われわれ3次元に生きる者の認識というものに絶対性などというものは、まったくないことが証明されるのである。その意味において、すべてが錯覚であり、その錯覚の中でマクロ的にわれわれは生存を繰り返しているにすぎないことになる。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 錯覚としての実在)