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2020.07.02
世界は存在しない
物理学者のプランクが言うように、物質は最小単位になったとき、量子の状態では物質なるものはもはや存在しないのである。ただ、振動あるいは波のような性質の「働きかけ」が存在し、その場を支配しているというのである。つまりそれは、われわれの身体も目に映っている景色も錯覚の産物でしかないというのである。物質は存在しないのだ。
だが、マクロに生きるわれわれには紛れもなく物質が存在し、いまも服を着こんだ物体がペンを持ってこの文章を書いているのだから、物質は存在しないと言われるとマクロ的にはピンとこない。だが、これが真実である。これは早100年前に発見されていることで、新しい知見ではない。実はこの事実を仏教は2500年も前からまったくその通りに説いてきたのだから、驚嘆する。現代のような科学も道具もないときに、この物質の本質を穿った教えには、ただただ敬服する。
マックス・プランク(1858~1947)は、1918年、量子論の研究でノーベル物理学賞を受賞した。
だが、理性的知見は2400年を待たなければならなかったが、直観という世界においては2400年前に把握が可能だったということである。ここにこそ西洋哲学の上に仏教哲学ないしはインド哲学が君臨する根拠があるといえるだろう。
その観点に立脚したとき、われわれが耳目するところの世界は、現実には存在しないと言うことを可能ならしむるのである。西洋哲学はこの場合こう言う。外界は、私の意識によって生じているもので、自分がいなくなれば世界も消え失せてしまう、と。しかしそれは嘘だ。その消え失せるというのは自分という内世界のことであって、外世界が消失するわけがない。しかし、個としての自分が認識する世界は自分の意識が認めた世界にすぎない。その位置付けは自分だけの感覚によって決められるもので、そこに他者の意識はなく、ただ自分が認識し作り上げた世界だというのである。世界とは唯一自分だけに映るもので、他者に映っているのはまた他者自身の世界でしかないというのである。そんなことは当たり前なのだが、哲学はなぜかムキになってそのことを主張する。そうして外世界も内世界も、唯一の自分だけの錯覚の世界だと論じられるのである。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 錯覚としての実在)