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2020.07.01
錯覚としての実在
われわれは何の違和感もなく自分を演じ生きている。そして内なる自分から外なる自分へと意識が動いたとき、眼を通して外なる世界を認識する。正しくは眼耳鼻舌身意なる六根の働きによって外界を認識するのである。視覚として空間を認識し色や遠近形状を知るのである。耳は音、ことばを聞き分ける。鼻は周囲の匂いを嗅ぎ分け、呼吸という生命維持の重要な役割も果たしている。舌は味覚という生命維持のための食と密接な関係にあり、かつ言語を発する。さらに全身の頭・四肢・皮膚・内臓器を通して外を認識し関わる。そして意識がそれらを統括して自分とその周辺の諸々の現象を把握するのである。この六識をもってわれわれは自分の存在を認識するのだ。
しかし、失明したり失聴したりすれば、外界の把握は著しく困難となる。ところが近年の研究では、失明した人が「エコーロケーション(反響定位)」という手法で、コウモリとまったく同じ原理で物体を把握し、ほとんど眼あきと同じ状態になれることが明らかとなった。聴覚を失った人も、ちょっとした風の流れや匂いなどと連携して心で感じ取る(聴き取るではない)ことができる人たちを見出したのである。
こうして、人の機能は多様であることは判明してきたのであるが、肝心のその対象たる空間の真実については未だ解き明かされないのである。宇宙論的にはビッグバンによってこの宇宙が創られ、時系列的には、インフレーションを経、38万年ほど経った頃、訪れた「宇宙の晴れ上がり」で閉じ込められていた素粒子が解放され、原子が作られ初めて光が直進できるようになった。それによって時空間が誕生したと考えられている。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 錯覚としての実在)