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2020.06.29
〈存在論〉ではなく〈自分論〉を
なぜ〈自分〉なのか―。この問題は永遠に解決しないように思われる。この話をし始めると、自分と他人の差について違いについて論じているのだと勘違いする人が大半であるが、そうではない。それは〈存在論〉なのであって〈自分論〉ではない。哲学者の大半が、この点に言及してはいないのである。意識の有無について論ずる者は多くいても「自分がなぜ自分なのか」という命題について論ずる者がない。もちろん〈他者問題〉としてそれらはある程度考察されてはいるのだが、決定的な思考へとは到っていない。それに触れる者はみな、ユングの集合無意識論を借用してもっともらしく語っているだけで、その実、彼らには何も分かっていない。
それほどに難解であるし、それ以前に、そのことを気にしないということなのかも知れない。まったく思い到っていない人がほとんどだ。どうも人類は、この問題に気付くことなく一生を終えているようである。それは恐ろしいばかりの自分認識の欠落というほかない。
この執筆に際して大勢の人に質問してみても、訊かれていることの意味が理解できない人が全員だったことには、こちらが驚かされた。実に、この問題は意外なほどに人びとから意識されない命題であるようだ。いくら説明しても全員が存在論としてしか理解できないのである。〈なぜ私が生じるのか〉だが、私にとっては、これが人生最大の難問としてわが意識の前面に立ちはだかった。
なぜ私は〈自分〉を演じているのか―
パスカルが言ったように、宇宙の中心は〈自分〉であるのだ。なにもかもが〈自分〉を中心に動いているのが、自分の世界である。その〈自分〉から私は脱け出したい。だが、それは不可能に見える。私は〈自分〉の中にいる。私は〈自分〉そのものだ。しかし問題は、他者の存在である。他者の〈自分〉は私の〈自分〉とどう異なるのか。なぜ、私は常に〈自分〉なのか。
どうして私は〈他者の自分〉たり得ないのか―
神はなぜ〈この自分〉の中に私を閉じ込めたのか。人生の主人公がなぜ〈この自分〉になったのか。そもそも〈自分〉とはいったい何者なのか。〈自分〉は常に自分にこだわり他者よりも優位に自分を置こうと意識し他者との区別を意識するのである。あるいは〈他者の自分〉から命令されるままに〈私の自分〉は行動し思考する。それが、一般的な自他の存在関係である。他者は常に私に関わるものであって、決して私自身とはなり得ない。その〈私〉が問題である。どこまで行っても〈私〉は見つからないからだ。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 どこまでが自分の意識か)