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2020.06.27
〈死〉を分析する
前回、自分のこだわりを捨てることで、〈死〉に伴う苦悩を克服したことを記した。
しかし、座禅の境地に達する必要もなく、思考をもって分析することで、ある程度は理性によって死は冷静に受け止められるようにもなる。すなわち〈死〉とは何かと考えてみることである。
死とは、自分の思考の停止を意味する。単に一時的思考の停止なら気絶や熟睡の最中もそうだが、〈死〉は一時的ではなく永遠であるのだ。サルトル的に言うならば、自己が支配する〈対自存在〉から他者に支配され自己が失われた〈即自存在〉への移行である。永遠なる死はすなわち無であり、死んだ当人には意識がないのだから永遠すらもないということである。死の直後、遺体が存在する間は、死者を知る者たちにとっては、それは即自存在としての物となり、その後に焼かれるなり埋葬されるなりして、目の前から遺体が消えたときに、死者は遺族や友人たちの心の中に生き続けることになる。
だが、当の本人はもはやどこにも存在しない。唯物論的には、消失したのである。だが消失したはずの本人は消失したことを自覚することなく消え失せるのである。つまり、本人にとっての死はただの眠りであり、単にもとの世界へ戻らないことを意味する。と言って、唯物論的にはその主体は存在しない。当の本人は悲しむこともなく、ただ消失するのである。生前の感傷は去られた遺族や友人にのみ継承されるも本人には一切の感覚、一切の感情は伴うことはあり得ず、死は永遠の自我の消失とともに存在からの解放をなすのである。不安や恐怖は生存する者のものであって、消失した者のものではない、ということになる。
一方で、唯心論的には、肉体は亡んでも死後にその意識は継続され、生き続けるということになり、どちらの立場に立っても死は恐れるに足るものではなくなるのである。どちらであれ、自我が確立されていない人は、死を目前にすると動揺する。老人がいつの時代も平然とした顔で死を迎え入れてきたのは、厳しい人生を通して自我の確立を経てきたからであるのだ。
現代の分析哲学によれば、そもそも我などというのは存在しないのだから、生もなく死もなく苦しみなどもない、などと悟ったようなことを言い放つ。実はこの表現方法は、仏教では2500年前からすでに語っていることではある。ただし、その内容は分析哲学とは同じとは言い難い。が、それにしても似ているといえば似ているのである。実は仏教哲学理論からの借り物ではないのか、少なくともヒントにしたのではないか、と正直なところ疑っている。
(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 分析としての〈死〉)