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2020.06.26

生きるとは何か

 死ぬための人生は悲しすぎる―

 生きてることに何の意味があるのか―

 その後、少年期から青年期にかけて私の心を支配し続けるこの命題は、人生に対する目的意識を根底から見直させることになる。〈死〉はすべてを失わせるのである。愛のすべてを奪い去っていくのである。この事実を直視することは、当時の私には耐え難い苦しみであった。いかにそのことを忘れるか、意識しないかが毎日の課題でもあった。しかしそれは、毎日のように私に襲ってきた。生は常に死との表裏でしかなく、生は死そのものであった。この悲しみや不安感というものを一掃することになるのは、15歳から16歳にかけての元服の儀式としての切腹の疑似体験の特訓を1年間毎日のようにしたことによるところが大きい。さらに、瞑想を始めたことが決定的であった。

 その後の10年間において、私は自我を無にする瞑想と100杯の水行を続けることになる。夏場は風呂に井戸水を張ってその中で1時間瞑想をした。流石にそういうときは、夏の暑い中でも数時間はふるえが止まることはなかった。少なくとも瞑想の最中においては、死に対する恐怖や拒絶感からは解放されるようになった。それまで生に執着し愛に耽溺していた意識を自分で驚くほどにすっきりと捨て去ることができるようになった。以前の私からすれば、それはまさに奇蹟的結果であった。それでも可愛がっていたペットの哀れな死への悲しみは、10代のうちは消えることがなかった。20代に入ると、この世の一切からも、自分からも消え失せることにまったくの執着を持たない境地に達することで、この悩みからは完全に解放されたのである。それは一種のニヒリズムであるのだが、所謂それと違い極めて楽観的であり、決して世を否定するものではなかった。ただ、最期の最期には自己執着を去れる確信を得られたということである。それ以降の人生観は、その意味において狭量な器としての〈いい人〉的(すなわち謬った)発想が肯定されることがなくなった。清濁を併せ呑む器が身に付き、物事を俯瞰する能力が一気に高まったことを自覚したものである。

 この私の心境の変化はある種の超越が行なわれたことを意味する。それは、それまでのこだわりを捨てることで獲得されたものである。こだわりとは、〈死〉に伴う〈悲しみ〉であった。愛する者たちと死別するという永遠性(断絶)が、耐え難く感じられていたものが、人生苦や自己の脆弱性との対峙や座禅瞑想というまさに超越的自我との出遇いとによって、その苦悩が克服されたのである。まさにそれは諦めの畢竟地であった。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 生きるとは何か)