BLOG

2020.06.24

〈総体の私〉との出遇い

 前回、10歳の筆者が〈私〉と初めて出遭った体験について記した。〈私〉とは、前回記したように、「他者の〈自分〉と自分の〈自分〉とを等価として理解し、なお且つ、その両者を統合せんとする意思を持つ者」を指している。

 そこからの旅は時間的には決して長くはないが、精神的には限りなく重く長い旅路となった。一つの帰結は16歳のときに〈総体の私〉として訪れることになる。その間の背景としての人生体験なる苦悩は筆舌に語り得ないものがあった。

 〈総体の私〉の説明は難しい。一般に理解してもらえるとは思えない。説明するのに躊躇するのであるが、あえて言えば、仏教哲学の存在論と一致したものだといえるだろう。誤解を伴うのを覚悟の上であえて言えば、私の〈私〉と他者の〈私〉は同一であるということである。同じようなことが西洋哲学の世界でも語られているようなのだが、彼らのそれと私のそれは、まったく違うものだと私は感じている。なぜなら、この感覚は思考ではなく瞑想による直観によって導かれたものだからだ。思考の延長線上に現われるこの考えは単なる思考の試みの一つにすぎず、そこには真なる実感が伴っていないと思うからである。自他の認識に困難を極めたあげくの選択としての思惟と思えるのである。それとは、私のそれはまったく違うものである。彼らのは所詮、思考の産物でしかなく、自分のものとなり得ていないからである。

 私のそれはまさに真実としての己の実体としての一体感の把握なのであって、決して思考の産物ではないという事実である。その境地に到ったときに〈自分〉と〈私〉と〈総体〉のそれぞれのレベルを理解したのである。それは西洋哲学の唯心論的ではなく、仏教の唯識論に近いものであった。すなわち、唯心論は心を絶対と考えるが、唯識はその心までも否定するというか空ずるのである。私の直観はこちらに到達し〝長年〟の苦悩から脱出したのである。

 これ以降は、自分で信じられないほどに〈死〉をまったく恐れることがなくなった。そしてこの自分問題は私の中では解決した。ただし、自分問題のすべてが完全に解決したわけではない。

 そして18歳のとき、ニーチェが言う神の否定とキルケゴールが説く実存、量子物理学が説く宇宙の意志に、ある夏の日、突然私は襲われ一つの核心を得るに到っている。

 この哲学中最も難問であり、西洋哲学ではただの一人も解答できていないこの〈自分〉問題を考える前に、一般的な〈生〉への難問について触れなくてはならない。誰しも(?)が子どもの時から幾度となく不安と恐怖に襲われた〈死〉なる命題である。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 16歳の帰結〈総体の私〉)