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2020.06.22

本来の素の自分

 イエスが語る幼な子の自由闊達な〈自分〉のことに直接的に言及しているわけではないが、そのような何らの肩書や世間体を気にしていない素の状態の自分を、哲学者のキルケゴールは〈実存(存在)〉と呼んだ。それは人間の自意識や社会的評価から離れた〈本来の素の自分〉を指した。一切の概念に支配されない〈素の自分〉に立ってこそ、人間は人間たり得ると説いたのである。しかし、〈素〉とはよほどの覚悟がなければたどり着けない姿でもある。そう簡単に人は〈素〉たり得ない。キルケゴールは人以上に神の素たる実存こそを強く説いた。それは、信仰心の篤い敬虔なクリスチャンのキルケゴールにとって、原罪意識からくる〈不安〉と対峙する中での自分対神という一対一の関係性において求められた神の実存であった。それは、キリスト教のドグマ(教義)から離れた、人間の作り上げた理性倫理の神ではなく、本質的で普遍的な存在としての神であった。超人思想を説いたニーチェの「神は死んだ」も、実はこのことを指しているのだと私には思えるのだが、ニーチェは無神論的実存主義者に分類されている。

 そんな哲学者たちの苦しみなど知る由のない幼い私に、存在としての絶対性についての巨大な疑念が発生したのである。

 自分はなぜ〈私〉なのか―

 そのとき、10歳の私を襲った衝撃は、〈実存〉問題よりもさらに深い難問中の難問であった。

 果たして〈私〉とは何なのか―

 勉強部屋の雨戸越しの窓から見える、晴れた日の田舎の家並と人の姿を通して気付かされた〈自分以外の自分〉が存在することへの強烈なショックと動揺は、10歳の少年には真正面から受け止めるだけの能力が不足していた。そのときの日記には「頭がこんがらがって考えるのをやめた」ということが書かれている。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 自分はなぜ〈私〉なのか)