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2020.06.18

千年の時を経た生

(風呂焚きの)材料の薪作りは、近所の農家の玄関先を使わせてもらっていた。祖父がそこに山から採ってきた間伐材を並べて寸法通りに均等に切り、いよいよ薪割りの開始となる。六、七歳の頃には筆者は薪割りでは名人の域に達していた。巧みに足先に薪を挟み、その先に思いっきり斧を振り下ろして真っ二つにするのが得意だった。いまそれをやれと言われるとほぼ間違いなく指を切り落とすだろう。何ともマヌケな都会人に成り落ちたいまの自分の情けなさを哀れに思う。それは実に充実した作業であった。TVゲームなど到底敵わぬ精神の充足がそこにはあった。

 樹皮の内側に棲むカミキリ虫の幼虫が発見されると、祖父はごく当たり前の表情でそれを手に取ると、「食べるか」と筆者に訊いたものだ。「いらんよ」と答えると「栄養があって美味しかとぞ」と言って、パクリと生きたままのその白くふわふわとした大きな幼虫を食べたものだった。この姿こそが「千年の時を経た生」というものの営みそのものであるのだ。筆者はそんな祖父やそういう祖父の血を引いた父の自然への崇敬が好きだった。父からは、小刀や大工道具などの使い方やセメントの練り方などを教わった。土塀の為の赤土を取りに行ったものだ。竹細工も覚えた。春夏秋には父に連れられ海で魚や貝や海藻などを獲った。夜の海のカーバイドの臭いが懐かしい。冬になると山に入り、「山いも」の発見と一メートルも深く掘る手伝いをしたものだ。その他、山菜を採り、「はじきわな」といった強力な罠で鳥を獲ったりもしていたものである。それは、千年前と何一つ変わらない生活であった。

 母は大量の洗濯物や野菜類を洗う時には、すぐ近くにある小川へと幼い筆者を連れて行った。寒い冬でも一メートルの段差がある幅一・五メートルもない川の中に降り、腰を屈して一時間も洗濯や大根洗いなどをするのである。近所の主婦たちと楽しげに話しながらのその光景も、太古からの人類の営みの継承であった。世界の途上国に於いてはいまも続けられているごくありふれた風景にすぎない。それでも、冬期に長時間の川での洗いは一気に手肌を荒らし、脚腰にも負担が大きいことはいうまでもない。心底冷えもする。ドラマ「おしん」の映像にもあった様に寒冷地の百姓たちはさぞかし大変だったろうと同情する。幼い筆者はその横で沢庵で赤ガニを釣り上げることに興じていた。その後には母の十本の指先は現代科学の化学肥料のせいで変形してしまっていた。

 最早こんな話は現代っ子には通じない。ところが、大正時代に生まれた人と話していても、都会育ちはこういう体験がなく、愕然とさせられたものである。重要なことは、こういった原体験を知らぬ指導者が国を動かすようになった時には、必ず道を謬るということである。教育者も同様である。わが国の道徳の腐敗と政治の低迷、マスコミの偏見、そしてあの髪型に表われている民衆の幼児性は、その全てがこの原風景を経てこなかった精神に一本の筋を持ち得ぬ者たちによる末路なのである。

(『侘び然び幽玄のこころ』第一章 侘び 「侘び」「幽玄」は太古からの営み)