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2020.06.14
日本人の精神の歴史
幼少より耳に馴れ親しんだ「しろしい」という言葉は、毎年の梅雨の時期を重ねる度に筆者に深い思いを持たせる様になっていったのである。それは、果てしなく続く日本人の精神の歴史そのものであったからである。そこには抗し難い無常輪廻観と諦めと感謝と物憂げさと微かな希求とがあった。
幼い時には祖父母の野良仕事を手伝う母に連れられて、誰もがするように子どもは畑の隅に置かれていたものである。そこは土の香りと草の香りとが混ざり合う環世界が展開しており、深く自身の記憶へと刻み込まれていったものである。風は頬をつたい、虫が飛びまた這う中での一コマである。空は青々と透き通り優しい日射しを向けていたものだ。同時に、茅葺き小屋の中で寝かされていた時の記憶はいまも鮮明に覚えている。壁はない屋根だけの造りであった。土間はただの地面そのままである。そこを踏み固め、藁や茣蓙を敷いただけの空間は、いつも湿っていて茅や藁が腐った独特の臭いに充たされていた。まだ幼い時の筆者は、陽射しの強い日や風の強い日はその中でよく昼寝をさせられたものだった。しかし、そこは小屋と言っても都会の人が考える代物ではない。要するに草地の上に茅や藁で頬被りをさせただけの農耕用の道具を仕舞っておく、ただの雨避けの物入れに過ぎないものだった。
そこに寝かされていたわけである。そこには芋類が保管されていることが常だった。そういうこともあって、虫の集いの場でもあった。ムカデが脇を歩いているなどといったことは珍しいことではなかった。誰も気にもしなかった。何より、あの独特の臭いである。黴の臭いとも違う、いやそれらも混ざり合ってのものなのか、重く湿気に充ちた茅や藁が腐りかけたその臭いは一種独特で、特別嫌という程ではなかったが、決して好きになれるものでもなかった。いまとなれば懐かしい思い出だが、日本という国の庶民の歴史の中に正にどっぷりと浸っていたのだと今は思えるのである。
このお気に入りの想い出深い広い畑は、いつの間にか安い値で人の手に渡っていた。悲しかった。祖父が言うには叔父夫婦の為の新築費用捻出の為だった。にも拘わらず「オレも安う売ってもろうたけん、高う売るわけにはいかん」ということだった。いい人だった。しかし、幼い筆者はとても不愉快だった。何より寂しく思った。自分の一部が失われたと感じたからである。そこでいつも寝かされ、作付や芋掘りをし、枇杷の袋かけや、野イチゴやウベやアケビを取るなど多くの土の記憶がなされた畑だからであった。
(『侘び然び幽玄のこころ』第一章 侘び 「侘び」との出会い)