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2020.06.08

われ思う、ゆえに〈われ〉あり

 日々に葛藤がある。昨日も今日も明日も考える者には葛藤が付いてまわる。その葛藤を酒を飲んで、あるいは自棄食いをして、あるいは人にあたって忘れ、また同じ葛藤を抱いて明日も生きるのか、思惟してステージを一つ上げるのか、それはあなた次第でしかない。われわれは時間という乗り物の中で、〈死〉という終着駅を目指して単に生存している愚かな生物でしかないとしたならば、人生とは何と哀れで悲しく、残酷であろうか。

 だが、それはもしかすると真実なのかも知れない。われわれは、社会からの洗脳によってその隠された真実について無思考を強いられているのかも知れない。アリの群が整然と営まれる中で、個としてのアリの主体性もどきも次々と犠牲的行為をなして消耗品として死んでいくその姿のように、人びとも自分を主体的自分と錯覚したままに、社会の一つの部品として単に使われているだけなのかも知れない。あなたが自覚するあなたという個性は、より高い次元から俯瞰したときにはただの単純な機械じかけの人形でしかないのかも知れないのだ。われわれが、その〝事実〟から脱け出し、自己を確立するためには、ただ、己との対峙を始めるしか術はないのである。〈私〉が〈私〉たらんとするためには、思惟する以外に方法はない!

 そしてその思惟は次なる超越へと導くのである。超越を生み出すことのない思惟は、ただの無思考な思惟にすぎないのだ。西洋哲学の限界はまさにこのところにあるということができるだろう。ましてや現代を席捲する分析哲学からはこの超越は到底生まれ得ないと私は感じている。彼らの〈私〉問題は、生きる者の真に核心に到る答えを導くことはないからである。なぜなら現代哲学の視座はことばにしか向けられていないからである。

(『人生は残酷である』序章 自分の人生とは)